2022/06/19

おじいさんとおばあさんと、緑深い神社

 

私の目には、空気がどこもかしこも少し霞んで、
緑色だけがやたらと、鮮明に輝いて見える。
暑く感じるのに、肌だけが、触れるとひんやりする感覚
湿気の多い土地でしか、体感できない。

用事の帰りに神社へよる。

緑が多くて、子どもたちの声が響いていて、
階段がちゃんとあって、気に入っている。
帰国のたびに、必ず一度は寄ってきたお気に入りの神社だ。

その日、仕事にまつわる色々に思うものがあって、でも、
誰が悪い、とか、あれがいけない、とか、言いたいんじゃない、と
脳みそが逡巡していた。
仕事が溜まっていたのだけれど、やもすると
あてどない考えに囚われそうだったから、
整理しようと、神社に足を向ける。



おじいさんが、階段の中腹にある慰霊碑をじっと見上げていた。
昼前の神社で、おじいさんの気配はいつも以上に、
神社の境内を静謐な場に変えていた。
そして、本殿へいくと、その脇の社務所の窓から
小さな白い背中が見えた。



帰国のたび、毎回必ずその神社へ寄ってはいたけれど、
だからと言って、信心深い訳ではない。
ただ、より神社らしい雰囲気と、
緑が深いことを気に入っていたからだった。
何せ、1年のうちのほんの少ししか、緑のない国から帰ってくると
湿った緑は、この上なく魅力的に見えていた。



けれどもある時、どうしても叶えたい願いに囚われる。

そのために、いつかの帰ヨルダン直前、その神社へ行った。
仕事が押してしまって、成田までの時間を逆算すると、
どこにも時間がなかったから、ぱっと寄るつもりだった。
でもその日なぜだか、人がたくさんいて、
全然私の順番は回ってこない。
雨のしとしと降る寒い日で、待っている間
社務所の中の、白い着物を着た小柄なおばあさんの背中だけを
じっと、見つめていた。

フライトの時間が迫っていて、結局
志なかばで、その場を後にした。



以前、この時期に私は毎年ヨルダンで、
小さなおはなしを作り続けていた。
おそらく、読まれることのない小さなおはなしは、
挿絵を添えられ、PDFにされ、メールに添付される。


周囲の子どもたちの話だったり、
夢に見たことの話だったり、
ヨルダンに住む人々から耳にした話だったり、
道で拾ったものから膨らませた話だったり、
遺跡や風景、身近なものに関する思考の話だったり、
どれも、多くの人には些細に見える話ばかりだったと思う。

ほとんどいつも、文字でしか連絡の取れない人に
私が作って送れるものは、これしかなかった。

感想をもらえた時から年月が経ち、いつの間にか
お礼だけで、感想は来なくなった。
たぶん、読んでいなかったのだと思う。
できるだけ客観的に、
心に残り、有益でいいものを、とは思っていたけれど、
技術が足りなかったし、何よりも、
読み手にとって、私の書くものへも私にまつわることにも
関心がなくなっていった。
悲しかったけれど、詮ないことだった。


在外に長くいると、できることがなさすぎて、
いろんなことに、ききわけが良くなるし、
諦めることに慣れてくる。

毎年仕事にかまけて、アウトプットのできない自分に鞭打って、
その時期だけ、ちょっと踏ん張って言葉を探したり、
絵の具やクレヨンを取り出したりしたおかげで、
結果的には、思考や感性の記録を、
話の形にして残していくことができた。

何かを作ろうとする気持ちをいただいて、
今でも、ありがたいと思っている。




さっきまで慰霊碑の前でじっとしていたおじいさんが
鳥居の下で、何度も何度も、頭を下げていた。
深く、心を込めて丁寧に、何度も。

つい、鳥居を通り過ぎたあとに振り返り
じっと、おじいさんを見つめてしまう。

どんな思いがあるのか、憶測するのも難しい。
ただ、お辞儀をする姿は、ひどく静かで、切実だった。

あのお年になっても、あれほど密やかな熱心さを胸に抱き
お辞儀をさせることとは、どんなことなのだろう。





神社へ寄った帰りにふと、書いたおはなしの一つが蘇る。

シリア人のお宅へ家庭訪問した時の情景の、
その家のお母さんの佇まいと子どもの様子と
その場の空気感をただひたすら克明に描写した、おはなし。

その家のお母さんは、小さな子どもを膝の上で寝かせながら、
私たちの話に耳を傾け、質問に応える。
ヨルダンにしては珍しく、カビの匂いが鼻をつくほど湿気ていて
光の入らない、暗い部屋の中だった。
ほとんど視線の合わないお母さんは、でも
ただひたすら子どものことを、愛おしそうに見つめ続けていた。
その圧倒的に善で平安で愛情に満ちた空気が、
お母さんの口から漏れ出る、彼らの暮らしや運命を、より
鮮明に浮き立たせる。

訪問を終えて建物を出ると、
突き抜けるようないつもの、曇りない青空がある、
というおはなし。


どうにもならないことなど、この世の中にはいくらでもある。




頭をすっきりさせたくて神社へ行ったはずだったのだけれど、
おじいさんの姿とおばあさんの背中から、
記憶の奥底を掘り返すことになって、
どうにもならないことや、詮ないことの切なさが、
心にじわりと広がる。


道に咲く大輪にしなった紫陽花が、
頭を垂れるおじいさんの姿を思い出させる。





神社へ行ったら、お礼を言うのがいいはずなのだけれど、
欲が出て、あぁなってほしいとか、こうなってほしい、とか
思いがちだった。

神社へお願いやら、お祈りやらをしようとすると
今の私の願いや、気にかけていることが何なのか、
わかってきたりする。
そして、自分の業や欲を認識し、それら自体、それから
それらに囚われる自分自身も解き放したい、と
色々な神社に行っては、願ってきたのだろう。
事象は違っても、その心の動きは大方、同じだった。


願いは自分のためではなく。

そう、欲深い私もやっと、心から思うようになってきた。
だから、最近ではできるだけ何も考えずに、
お礼と、周りの人々の安全だけ、
悪い姿勢をちょっと伸ばして、
お祈りするようにしている。