2022/03/04

砂塵と鳩の舞う土地 ー 砂塵が舞う日

 

午後から雨の予報だった。
雨が降る前には、ひどい突風が吹き荒れる。
上空だけが妙に明るくて、でも
地平線からは煙のような砂が舞い上がっているのが
目視できる。




こんな日は、出歩くだけでも体力を使う。
冬の雨季にはこの突風の後、必ず雨が降る。

初めてこの情景を見た10年前、あまりの景色に
何か不吉な天変地異でも起こるのではないか、と
バカアキャンプの学校の窓から、呆然と眺めたのを思い出す。

それでも冬は、雨が降るからいい。
夏場の砂塵は、ただひたすら、砂を含んだ竜巻となって、
建物や人々を襲う。


予定がみっちり詰まった日だった。
朝早くから仕事があったので、出発するまでに、正直
心身ともに疲れ果てていた。

それでも、行き道でたくさんスタッフと話し、
着いたら先生たちともたくさん話し、
家庭訪問でインタビューをして、
子どもたちにも話を聞かせてもらう。

家庭訪問では、子どもたちに将来どうなって欲しいのか、と
親御さんにインタビューをする、というミッションがあった。
子どもたちの顔はよく覚えていたけれど、
お父さんにお会いするのは初めてだった。

お父さんは、子どもたちの顔を2つ合わせて混ぜたようなお顔だった。
本当は反対なのだけれど、どうしても子どもたちの顔が
先に頭に浮かんでしまう。

違う国に行くことになっても、きちんと仕事に就けるような
お医者さんやエンジニアがいい、とお父さんは言う。
子どもたちにとっては、身近にいる人たちだから、
将来の夢になりやすい。
けれども、大人たちにとっては、手に職を持って、
どこでも生きていけるようになって欲しい、という
現実的な切望があった。

それなりに長く通っていたけれども、こんな当たり前のことに
気づいていなかった。


家庭訪問へ行く道のりは、随分と困難なものだった。
風が強すぎて、プレハブがなくなる空き地を歩くと
まともに砂と風が身体に打ちつけられる。
まるで、ガラスを装飾するサンドブラストのようだ。




こんな天気が悪いのに、子どもたちはずいぶん楽しそうだった。
大きなビニール袋を手に持って風を受けたり、
不恰好な凧のようなものを一生懸命飛ばそうとしたり、
とにかく膨らむのが楽しいのか、軽い袋を握って
風とともに走っていたりした。

学校にも、子どもたちは普段通り来ている。
けれども、あまりの風に、低学年の子どもたちは
地面から噴き上げる風に、完全に埋もれてしまっていた。


学校に戻ると、学校は終わっていた。
1時間目をしたところで、天候不良を理由に、しめてしまった。
帰りがけの子どもたちの中に、話を聞きたい生徒がいたので、
教室に入って話していると、友達の子たちが
どんどんやってくる。
先生の回転椅子に座ったり、机の上に座ったりして、
肩を寄せ合いながら楽しそうに、ふざけあったり
伸び伸び話す様子が、中学時分を思い出させてくれて、
なんだかとても、懐かしかった。

どの子も、3年生や4年生の時から知っている。
やんちゃで、話は聞かないし、わがままばかり言う
そんな子たちも多くて、ずいぶん手を焼いた。
けれども、7年生や8年生になって、体も大きくなり
少しだけ、落ち着いてきた。

ただただ、感慨深かった。


今日は、キャンプに来る最後の日だった。
ここからしばらくは、キャンプへ行くことはできない。


先生の一人と話をしていた。
給与のことを相談しつつ、家族の話を聞かせてもらったりする。
とにかくお世話になったおうちだから、
会えなくなるのは、本当に寂しい。

よくアラブ人は、ちょっと会わないだけでも、
会えなくて寂しかったわ、と言ってくれる。
それはたぶん本当に、寂しいと感じている。
きっと、人懐こくて、人との繋がりを大切にするから、
少しでも会わないと、ずいぶん長いように感じてしまうのだと思う。

それから、今から会えなくなる人にも、
まだ目の前にいるのに、寂しいわ、と言ってくれる。

どちらかというと私は、そんな気持ちをどうしたらいいのか
分からないことの方が多いから、言葉にして、寂しかった、など
今までほとんど口にすることもなかった。

けれども、会わなくなることを少しでも想像すると、
それはとても、寂しいことなのだ、と、ようやく
実感する機会を得ることになった。

寂しい、と口にしたら、でも、本当にとても寂しくなってしまう。

だから、また必ず帰ってくる、とただただ繰り返し、言っていた。

キャンプの中の美味しいお菓子屋さんに、帰りには連れて行ってもらう。
私の大好きな、ハリーセ・マァ・クシュタが入った
お菓子の詰め合わせをもらう。




どうしても、キャンプの中の大好きな鶏屋さんの
鶏の丸焼きが食べたくて、そのお店にも寄ってもらう。
そこのお店には、魔法のように美味しいソースがあって、
鶏にかけて焼いてくれる。





シャンゼリゼ通りで、道の写真を撮りながら、
9年前の情景を思い出す。
まだテントが圧倒的に多かったけれど、この商店街はすでに
道の両側で店を構えていた。

突風の後には雨がやってきて、それでも
風が強いから雲も流され、
青空が見え隠れする。
さっきまでの砂塵を、今降っている雨で掃除している人たち。

テントはプレハブに変わったし、
プレハブには色とりどりの装飾がされているし、
店構えはどこも立派になったけれど、
道はどこまでも茶色い土で、ただただ真っ直ぐ、続いている、
この景色自体は、変わらない。

それが忌むべき状況だと、頭では分かっている。

けれども、こんな場所でも生活をよくしていこうと、
少しでもいい野菜や果物や美味しい食事を手に入れようとする、
人々の気持ちと心意気に、感動に似た心の強さと温かさを感じた
初めてのザアタリキャンプでの仕事が、9年前。
それからもずっと、ここで暮らしている人々に対して
そこはかとない、敬意と大切さ、愛おしさを抱く瞬間を、
いただける機会に恵まれたことが、心からありがたい。









2022/03/01

砂塵と鳩の舞う土地 ー ビー玉 思い通りにいかないこと

 

暖かな日、まだ湿気を残した空気に
すべてのものが、ふわりとした何かに
包まれているような柔らかさがあった。

窓を開けて車に乗っていても、もう寒くない。

乾燥し切っているはずのキャンプにも、どことなしか
湿度があって、気圧が低くなっているような感覚がある。

どこの教室に入っても、なんだか子どもたちの重力も
解放されているような華やかさがあって、
久しぶりに入った女子シフトの高学年でも
弾けるような明るさが漂っていた。

演劇の基礎を説明していたはずなのに、
質問したいことがあるから、と日本について話をする時間ができてしまう。
日本の何が知りたいですか?という問いに、
日本の結婚式、と即答された。
確かに、もう結婚する子たちも出てくる学年だった。

新郎新婦が入場して、挨拶をした後、食事を食べつつ、出し物があって、
最後には親への感謝の手紙を読んだりする、と
それが今の結婚式の主流なのかも分からない、
私が出席した昔の話などをしていた。

踊りはないの?歌は歌わないの?と矢継ぎ早に質問が響く。
文字通り、目をキラキラさせながら、興奮気味で話を聞いていた。

男子シフトはもっと浮かれていた。
落ち着かない子どもたちが、授業中ももぞもぞしている。
一番後ろから子どもたちを見ていると、
いつも通り、ビー玉をいじり続けている子が
鉛筆置きの溝に、ビー玉を転がしたりしていた。

教室の外からは、名前をやたらと呼ばれ、
挨拶してくる子たちの声は、音が跳ね上がるような
弾みのある声ばかりだった。


今日は、1件伺うお宅があった。
どうしても行かなくてはならない用事は、
単純にご家族に挨拶をすること、だった。
挨拶したい主な相手は子どもさんたちで、
いつも素敵な笑顔の写真やら動画を送ってくれる彼らに
お礼を言うつもりだった。

家に入った瞬間に、香ばしい美味しい匂いが鼻先をかすめる。
自慢のお料理、鶏とご飯のカプセだった。


台所では一番下の娘さんが、
ご飯の中に入ったグリーンピースをつまみ食いしようとして、
熱い!とアラビア語で繰り返していた。
お母さんは、切ったはずのオーブンの火がつきっぱなしになっていて、
鶏の表面が焦げてしまったことを、ずっと気にしていた。
でも、どこから見ても、美味しいのに違いない、
素敵なお皿が出来上がっていた。


そこへ、男性たちが入ってくる。
予期せぬ、同席の客だった。
客間に入って、奥の席に座る。
そして、食事が並んだ時、気がついた。
子どもさんやお母さんは、一緒に食べられないのだ、と。

こちらでは、親族ではないお客がくると、
女性や娘さんは、一緒に食べないことが多い。
それに、客人のための料理は、たとえ頑張って作った女性であっても、
客人の後の残りをいただく。

いつも一緒に食事をいただく時間が何より、楽しかった。
上の子が一番下の子のお食事の世話をしたり、
食べながら色々な話をするのが、好きだった。
今日もそんな情景を期待していたからか、
なんとも言えず、申し訳ないし、悲しくなってしまった。


帰らなくてはならない時間は迫っていた。
お食事は、どれも本当に美味しかったけれど、
私たちの食事が終わるのを待っているのだ、と思うと
ゆっくりいただく気持ちにもなれない。

お皿を下げながら、台所にいるお母さんに挨拶をする。
お母さんはまだ、私たちにお茶を出そうと準備をしていた。
そして、子どもたちはお母さんの周りで手持ち無沙汰な様子だった。

お母さんは、お食事がおいしかった?と尋ねてくる。
もちろん美味しかった、そう答えると、にっこり微笑む。
この顔を見たかったのだな、としみじみ思う。
と同時に、なんだか思い通りにいかなかったことが
子どもじみたわがままのように、悲しくなってしまったところに
申し訳なさが加わって、泣けてきてしまった。




サラダにはパクチーが入っていて、新鮮な香りと水分が
バスティマ米とよく合う。
鶏は柔らかくて、鶏そのものの味が優しいスパイスの味と
よくからんで、口の中でふわりと広がる。

いつの日か、こんなおいしい食事を自分で作れるようになるのだろうか。