2020/06/26

続 手をつなぎましょう もしくは、握手をするように


こんな時期だから、
手を取り合って、とか、手を携えて、とか
手を差し伸べて、とか
いろいろな文言があるけれど、
手を上げたり、手を下したり、手をこまねいたり、手を反したりと、
同時並行でいろいろな手を打ってくるから、
手を使った慣用句の中でなされる、人の行動の様々は、
いつもとても、忙しい。

手湿疹と激しい乾燥、日頃の不養生で、
もともと節だってごつごつしているのに
最近では手袋着用が義務なので、
アレルギーですっかり荒れ果てた私の手は、
手を差し出す行為には結構、観念的にも物理的にも
躊躇したりすることが多い。

こちらのCOVID-19予防のパンフレットには
ウェルカムコーヒーのカップは回し飲みしない、とか
挨拶にハグやキスをしない、というのと並んで
握手もしない、という記載がある。

日本人で握手をするのは、政治家か有名人。もしくは
商談でも成立した時にしたりするのかもしれない。
私は商談したことがないので、分からない。


握手は得意ではない。
こちらでは握手をするのが挨拶とセットなので
いい加減習慣には慣れたけれど、心の底では握手のたびに、
白魚のような手、という言葉を思い出し、
切ない気持ちになる。
完全に不養生は私のせいなのだけれど。

うちの近所の犬は、最近私の姿を認めると、
撫でて欲しさにところ構わず、ゴロリ、と横になるようになった。
撫でられている間に、前足を必ず私の膝に乗せてくる。
犬は飼ったことがないので、どういう意味なのか分からないけれど、
左手で犬の足を握りながら、右手で体を撫でる。
差し出されたら握手するのが、アラブ流だから。

足は汚くてなかなかごつい。でも、出されたら握手する。





先日、止むを得ぬ所用で、久々にアンマンの住宅地へ行った。
たくさん家庭訪問をした地域だったから、
過去に伺ったイラク人のご家庭の話を思い出したりしながら、
小さな路地でポツンと一人、先方を待つ。

マスクをつけると、アジア人であることが、ある程度消される感覚がある。
それは、とかく目立ってしまいがちな外見には
ありがたいことだった。

赤ちゃんの泣き声や子どものはしゃぐ声、
たくさんの家の中から漏れる、人の気配に満ちた平日の夕方の音。
もうしばらく、聞くこともなかった音と空気だった。
住宅地の音に、心ならずも日常の何たるか、を知らされる。




街路樹として植えられているオリーブの木では
もう実がふくらみ始めていた。
うちの近所にはオリーブはないから、
物珍しいものでも見るように、しげしげと観察する。

先方はマスクも手袋もせずにやってきて、
荷物を受け取るだけのはずだったのに、家の中へ私を招き入れる。
初対面の人に対して、断る勇気がなかったのも確かだった。
ただ何よりも、誰かのお宅へ伺うという、今まで普通にしてきたことから
すっかり遠のいてしまっていたせいで、
ふと、身体が自然と人の気配や温度に反応して、
考えるよりも前に、促されるままふらふらと、建物に入ってしまった。

6、7階建ての建物が所狭しと並ぶ典型的なアンマンの住宅地は
建物の入り口からもう、懐かしさにあふれていた。

アパートメントの入り口の、プラスティックのブランコや
その周りに散らばるおもちゃ。
手入れの中途半端なたくさんの植物たち。

玄関のドアのすぐ横で、おじいさんがソファにごろ寝をしていて、
私が入ったことにも気づかず、体を撫でているであろう夕涼みの風に
気持ち良さそうだった。
応接間に通される。そして、家族の中の女性ばかりが、
私のところにやってきて、挨拶をする。

躊躇することなどいくらもなく、ふわっとふくよかな手で
誰もが私に羽のように軽い、握手をしていった。
私に拒否権はない、だから、手袋を外して、
こちらの女性たちの優しく柔らかい手の感触を
ふわりと感じていく。


本当はもっと、聞きたい話があったのだけれど、
用事を済ませてそそくさと家を後にする。
建物にたっぷりと這う蔦の緑と、
住宅が醸し出す日常の空気に、後ろ髪ひかれた。


家に戻ってから、ごつごつした手を洗う。


在外で感染することは、日本で感染するよりも、おそらく事は重大だ。
単純に医療事情もあるけれど、それより
外国人が、日本人が、という括りの中で、
同じ括りに自動的に入ってしまうであろう他の人々に
かかる迷惑の方が、理由として大きい。

COVID-19なんてないんでしょ、そんなことを口にするような人もいるぐらい
今のところは蔓延を回避できているこの国で、
こちらの抱く目に見えないものへの警戒と、相手の無防備さを照らし合わせ
自分の行動を規制していくのは、思ったよりも難しかった。

だったら、もうどこへも出かけずに、
誰にも会わなければいい、というのが
こちらに残っている数少ない日本人の間では常識になっている。
もしくは日本に戻ればいい、と。
けれども、日本に戻ったら、今度は外国から帰ってきたからと
私も気を遣うし、警戒もされる。


一体いつまでこの状態のまま、
暮らしていかなくてはならないのだろう、と
屋上の家から街を見下ろし、途方に暮れた。




隔離生活期間、一番ありがたさを感じたのは、
家の立地だった。
屋上の家からの景色は、開放感があって
下を覗けば人々の営みが、幾らかでも垣間見れた。
見られている方は、私が上から眺めているなど、知る由もないけれど、
こちらは勝手に、慰められたりした。

色とりどりの洗濯物を干し、
三輪車で駆け回り、
ソファを持ち出しては夕涼みをする
たくさんの、四角い屋上が見える。

でも、それはあくまで眺めるものであって、
身体的に何かしらを感じられるものではない、ということを
薄々感づいてはいたけれど、知らないふりをしていた。


COVID-19のおかげで、ネット回線での電話の頻度は増えた。
電話口で、元気ですね、なんて言われたりする。
何せ、大体笑っているからだ。
笑ってないとやっていけないからなんだけどな、と
本当のところを理解してもらえない一抹の寂しさを感じつつ、
みな似たような状況なのだから、と相手の反応を受け入れる。


それでも、つながっているのはありがたい。

だから、物理的には不可能だけれど、
慣用句的に手を使ってつながれる方法を
できるだけ持っておくことに、一縷の望みを抱く。

笑うのに疲れたのか、この状態に疲れたのか、
すっかり疎かになっていたけれども、
それこそ、握手をする時の身体的な温かみを感じられるような
言葉を探しながら伝える作業が、普段以上に大切なのだろう。

それは、思った以上に難しく、心砕くものだ。

会って顔を見る方が、人それぞれの気配から立ち上がる空気感を察知する方が、
握手をする方が、正直、よほど楽だ。

COVID-19が去った後には、握手への苦手意識が
いくらか軽減されるのかもしれない。


2020/06/01

今、リリィ・シュシュのすべて



相変わらず金曜日だけは、完全外出禁止、

さっぱり出られないヨルダンの休日は、長い。

久しぶりに映画が観たくなった。
しかも、こともあろうに、邦画が無性に観たかった。
昔観たやつを。

違法を重々承知で、検索をかけたら

昔いくつか観に行っていた、岩井俊二の映画がいくつか載っていた。

四月物語が上映された年、同じく

一人暮らしを始めた私は、
桜並木にも人の息遣いがある映画の中の街と、
移り住んだ先に待っていた、ただ無機質で人工的な桜並木との
えも云われぬギャップから、
その先に続くであろう学生生活に、不安を抱いた記憶がある。

当然、松たか子のように、可愛らしい笑顔も瑞々しさもなく、

かっこいい先輩も待っていなかった学生生活の始まりを思い、
映画というのは、残酷なものだな、とその時ひどく
感じたものだ。


おそらく、私の世代ではありがちな話だけれど、

美術系の学生だったら大体、観るもののリストに入っていた。
スワロウテイルとか、PiCNiCとか、庵野秀明だけれど、式日とか。

ただ考えてみたら、リリィ・シュシュのすべて、だけは

観たことがなかった。
結構、周りの人たちは観ていたはずだったのだけれど、
どうしても、観る気になれなかった。おそらく、
普通に、怖そうだったからなのだと、思う。

田舎で隔離に近い環境で育った私には、

同世代の間にリアルタイムで起きているのであろう、
援交とか、暴力的ないじめとか、万引きとか、自殺とか、
ネットという架空の空間でのやり取りとかを
どう捉えたらいいのか、
考えのベースになる軸を持つ準備ができていなかった。

もしくは、単純に、映画の中では

美しいものを観ていたい、と思っていた節もある。
単館映画しか基本的に観にいかず、その大方が
映像の美しいヨーロッパ映画だったし、
借りる映画もほとんどが、北欧かイランかアジア映画だった。


限りなく、甘ちゃんだった。

あまり今も変わっていないけれど。






断片的だけれど、丁寧に緻密に描かれている話の展開と、
架空の居場所の中で語られる音楽にまつわる言葉の幾つかが、
交わったり、解離したり、解放されたり、重なったりする。
身体的にも、精神的にも、どこかで痛みばかりを抱える
映画の中の10代たちは、とにかく、ひりひりする。

そして、どこか個を明示したいと欲求しながら、でも、
とろけるような恍惚感を感じられる、居場所を探す感覚には、
青臭くて、裏若いのに、決して馬鹿にはできない、
あの年頃独特の、鋭敏な感性がある。


好きなアーティストについて、そのひそやかな高揚感や興奮を

言葉で共有する、匿名が許されたコミュニティ。
身体の底からもわもわと立ち上がる、懐かしさだった。

青くてちくちくする痛み、
煙の中を射す光の、奇妙な透明感のような、
背をそっと撫でられるように密やかな感覚を、
思い出したりした。

その感覚を思い出させる映画を構成するすべてが、
ただただ見事だった。

上映していた時期に観ていたのなら、一体

どんな感想を抱いたのだろう。


ちょうど、この映画の頃、ネットの中でのコミュニティが
同世代の間で、広まりつつあった。


匿名性とは、そういえば、もっと密やかで内に向かうものだった。


映画の中のネットコミュニティは、
ある時点まで、共通した”好きなもの”を軸に、
親密で、だけれども適度に距離が確保されていた。
微妙な空気感を保とうとする、
客観的にはどうしようもなくバランスには欠けるけど、
繊細で脆くて優しい場所のように見える。

自分だと知られるのは恥ずかしいけれど、
何かを誰かに伝えたり、共感したりしたい。
たくさんの刺や気負い、もしくは、さり気なさや可愛らしさ、
仮名にありったけの思いを込めたりして、
閉ざされた、自分の思いを理解してくれる世界の中で、
共感を求め、差異に敏感になり、でも心のどこかで感心したりして、
繊細さに、痛み、傷つけながらも、
そこに自分の居場所があることで、
自分や他者を癒していく手段としての、匿名性。

そこに居られなくなったのならば、匿名であることを捨てる時だ。
そう考えるのは、未だに、私が甘ちゃんだからなのだろうか。



匿名を使って向かう先が、好きなものではなく、嫌いなものへと

真逆になりつつある今だけれど、
結局、手に入れたいもう一つの世界は、
実のところ、同じようなものに見える。

もしそうだとしたら、弱さや恥ずかしさや脆さや優しさが

うまく出せない大人のような子どもや、子どものような大人が、
ずっと彷徨い続けていることになる。



リアルタイムではこの映画を観ようとせず、
立派なスケルトンのMacは持っていたけれど、
ネットのコミュニティにも縁がなかった私は、
身近な人たちの中に、好きな音楽を共有する人を
見つけられなかったりして、
うまく言語化も、共有もできないまま
ただひたすら、音楽に没入しながら
一人全身で感じ続けるしかなかった。

アウトプットできなかったからこそ、
あの感覚をひどく、鮮明に思い出すことができるのかもしれない。


もはや、匿名性に頼り、ひた隠しに没入できる何かを
持ち合わせることもなくなった。

ただ、今でも音楽は、逃げ場であり居場所でもあるから、
その空間での孤独に耐えられなくなった時には、
その弱や脆さを引き受け、共感してくれる場があって欲しい、と
いい歳にになっても未だに、どこかで切に、願っている。

他人に向けて、言葉をふりかざすのではなく、
浸透性の高い液体のような言葉に満ちた、
傷を癒していく力を感じられる場所があるのなら、
匿名のまま、もぐり込みたい。