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アンマンがロックダウンの間、
屋上から見える、路地という路地から、見事に
人の姿が消えた。
部屋の窓から、近所の目抜き通りに人影が一切消えてしまったのを
毎日毎日、不思議な気分で眺めていた。
その通の脇にはベンチがあって、
ずっといつもおいちゃんが座っている。
おいちゃん、と私が勝手に呼んでいる人は、
脳に障害がある。
おいちゃんは、たぶん家がない。
もしくは、家があっても、家にあまり居ない。
いつも同じような服を着ているし、
皮膚病なのか、右足を引きずっていて、だからよく転ぶのか、
顔の頬からおでこまで、丸い痣やかさぶたがある。
いつも、痣もかさぶたも、そのままだ。
目はいつも、充血して真っ赤で、鋭い。
ずっとこの辺りに住んでいるから、
何度か、そのおいちゃんが、
ものすごい怒って大声を出したり、ばんばん近くの人を叩いたりするのを、
そんな時ばかりは、遠巻きに見ていたことがあった。
時々、裏通りの商店街のおじさんたちが、
足の悪いおいちゃんが歩くのを、支えてあげたりしていた。
それから、時々同じおじさんたちが
おいちゃんの脇に座って、話し相手になったりしている。
でも、普段はじっとベンチに座っていて、通りを見ている。
だから、目が合ったら必ず、挨拶をするようにしている。
私はいつも胸に手を当てて、こんにちは、と言う。
そうすると、おいちゃんは必ず真顔で、
エンティ チャイナ?(あんた中国人?)と
訊いてくる。大きな声で。
だから、いつも私は、いや、日本人なんです、と
アラビア語で答える。
もうこのやりとりを、軽く100回以上、やってきた。
必ず挨拶するし、必ず同じ返しをしてくれるけど、
若者などがいると、アジア人の私は冷やかされて、
ついでにおいちゃんを馬鹿にされてしまうので、
おいちゃんとは、挨拶しか、したことがなかった。
おいちゃんに挨拶をするのには、いくつかの理由がたぶん、ある。
一つには、とりあえず見知った顔には挨拶して、礼儀は重んじる、ということ。
もう一つ挙げるなら、同情心とか憐憫とかではなくて、
どちらかというと、親近感に近い、感情があるからだ。
おいちゃんも、それほど存在を歓迎されているわけではなさそうだし、
だいたい、いつも一人で座っている。
私の方もまた、だいたい一人だし、
歩いている時まで、自分が日本人で一応仕事があります、なんて
提示する方法はないから、
根本的にはかなり閉鎖的なヨルダン社会の中で、
似た者同士なのではないかな、と勝手に思っている。
おいちゃんにとっては、全くいらない親近感かもしれないけど。
ロックダウンが始まって、どの道にも人影が消え、
時々、あのおいちゃんはどうしているのかな、と思いつつ
買い物の用事もなくて、外へしばらく、出なかった。
久しぶりに、目抜き通りを越えて買い物に出た。
おいちゃんの姿は普段通り、ベンチにあった。
人がいないから、おいちゃんの大きな猫背の身体は
何だかいつもよりぽつん、としている。
思わず日本語で、あぁ、おいちゃん、と口にしてしまい、
その後、いつも通り挨拶をした。
私自身、日常で会っていた人と再会するのは久しぶりだったから、
いつも以上に声が弾んでいたと思う。
おいちゃんはどことなく、嬉しそうだった。
おいちゃんの笑顔は見たことがなかったので、
こちらも何だか、嬉しくなる。
おいちゃんのいつもの返しを、心待ちにする自分がいたりする。
エンティ バングラデーッシュ?
おいちゃんは唐突に、中国人ではなく、バングラディッシュ人か
訊いてきた。
思わず笑ってしまった。
いや、いつも言ってますよね、私、日本人なんです、
中国人でもなく、韓国人でもなく、日本人なんですよ、
そう言うと、そっか、と呟くには大きな声を出すと、
私が前を通り過ぎるのをじっと、見ていた。
どうも私はいつも、
おいちゃんにからかわれていたのかもしれない、と思う。
それでも、あまり悪い気はしない。
なんで今日ばかりはバングラディッシュ人と訊いてきたんだろう、と
ロックダウン中のおいちゃんの思考について、考えてみようとした。
ロックダウンで人通りがなくなると、
おいちゃんの質問のレパートリーも変わってくる。
いつもと違う日々が、こんな形で影響してくることもあるようだ。
その後も何度か、ロックダウン中においちゃんに挨拶をした。
おいちゃんは何か言いたげな様子で、私が通り過ぎるのをじっと見ていた。
きっと、話し相手がいなくて、誰でもいいから話したいのだろう。
先日も、買い物前に、おいちゃんに会った。
雨が降ると予報が出ていたので、慌てていた。
挨拶をすると、何かを早口で言ってくる。
なんですか?聞き返すと、おいちゃんは
今から仕事に行くのか?と、英語で訊いてきた。
おいちゃんが英語を話すのも知らなかったし、
おいちゃんが何かを私に尋ねてくることもなかったから、
驚いて、立ち止まってしまった。
いや、仕事じゃなくて、買い物なんです、と言うと、
そっか、とまたアラビア語で、大きく呟く。
そして、何かを話したそうだったけれど、
ぐっと言葉を飲み込んでいるようだった。
おいちゃんの前を通り過ぎてすぐに、
財布を忘れたことに気がつく。
また、おいちゃんの前を、罰が悪い思い満載で、足早に通り過ぎると、
買い物、早いね、とまた、英語で声をかけてきた。
財布を忘れたんです、と答える。
おいちゃんはもしかしたら、冗談好きなのかもしれない。
アパートメントに戻る道すがら、
一体おいちゃんは、どうして今のおいちゃんになったのだろう、と
考えていた。
仕事柄、障害の種類のいくつかはなんとなく知っているけど
私は、おいちゃんの問題の種類を、誤解していた。
俄然おいちゃんに、興味が出てくる。
おいちゃんはいつも、アラビア語も英語も早口で、
口がモゴモゴしているので、
何を話しているのか、うまく聞き取れない。
男の人に声をかけるのは、
外国人でもあまり文化的に良くない。
でも、おいちゃんの近くに今度、座ってみようかな、と思ったりもする。
けれどもやはり、少しハードルが高い。
昨日の夜は、満月だった。
いつも通り、満月を写真に納めようと、窓からカメラを構える。
相変わらず6時以降は外出禁止で、
さらに、ラマダン中のイフタール(断食明けの食事)を食べているであろう時間帯、
街はすっかり静まり返っていた。
突然、人の叫び声がする。
お腹が空いたんだ、お腹が空いたんだ、お腹が空いたんだよ、
がなるような喚き声が、高台からワディ(谷間)に響く。
おいちゃんがベンチに座ったまま、
通りを挟んだ観光警察の小さな小屋の警察官たちに、
小さな子が駄々をこねるように、叫び続けていた。
警察官の人たちもおそらく、困り果てているようだった。
しばらくしてたまりかねたのか、あんた、頭おかしいよ、という
警察官の怒鳴り声も聞こえた。
本当にお腹が空いていたのか、食べ物はあるのに言い出してしまったのか
よく分からない。
お腹が空いたのなら、何か差し入れてもいいのだけれど、
もう外には出られない時間だから、それもできない。
でもきっと、外国人の私が作ったものなんて、
おいちゃんは食べないだろうな、とも思う。
おいちゃんは私が異人種であることをよく、分かっている。
おいちゃんは、外に居ても注意されないし、
叫んでも、しょうがないよ、おいちゃんだから、と
近所の人たちに黙認されているのだろう。
こんなに身体から目一杯の声を振り絞って叫んでいる声は
やはり、切なかった。
ただ、大声で訴えられるのは、いつも黙認されているおいちゃんだからで、
きっと、おいちゃんみたいに夜は外出禁止で、
イフタールにもありつけない空の下の住人はたくさん、いる。
ダウンタウンや幹線道路で物乞いをする人たちを思い出しながら、
満月を見つめつつ、おいちゃんの悲痛な声を聞き続けた。
しばらくして声が聞こえなくなった。
でも、おいちゃんの姿はまだ、ベンチにじっと固まったままだった。
もしかして、この通りの周りに住んでいる人なら、
おいちゃんがどうやって今のおいちゃんになったのか、
知っているのかもしれない。
お店に人が戻ってきたら、訊いてみよう、と思っている。
ヨルダンは、一番美しい春の季節を一瞬で駆け抜けて、
そろそろ空の色も、突き抜けるような濃い青色に変わりつつある。
毎年桜が見られない代わりに、何としても出かけていた
国花のブラックアイリス探しも、
ちょうど花が咲き始めた頃に外出禁止となって、
見られず仕舞いのまま、青々とした季節を見逃しつつ、ある。
それでも、約1ヶ月半の厳しい外出規制の末に、
やっと日常に戻す動きが、始まった。
自家用車が規定を守れば使用できるようになり、バスやタクシーも走り出した。
この状況を、国外で過ごしながら、
本当に、いろいろと考えるところがあった。
まだ、現在進行形で進むさまざまな事象や、
その先に待っているかもしれない不確定なことを、
言葉にすることは、あまり意味がない。
根拠のない希望にもなれば、呪詛にもなるだろう。
ただ、今まで起きたことと、それについて考えたこと、については
書き残しておいてもいいかと、思いたつ。
自分の整理のために。
おそらく、地域に関わらず、他の国に住むと、
刺激のある面白い日々も、辛酸なめる苦しい日々も
少なからず経験することになる。
自分が持っていた偏見に気づかされることもあるし、
自分に向けられた偏見に過敏になることも、ある。
私のように、もう結構長く同じ国にいれば、
ある程度の諦めと慣れで、なんとかやり過ごすことができるようにも、なる。
ただ、今回のように日常がじわじわと見えない何かに脅かされる時、
人が抱く不安や恐怖は、攻撃となって出てくるのだ、ということを
2月頭あたりから身をもって、体験することになった。
今までもうっすらとあった、偏見や排除が、
はっきりと目に見える形で、立ち現れる瞬間だった。
まさに私は、根拠のない恐怖の対象だった。
その時点で、ある意味、腹を括った。
人が、恐怖と不安でおかしくなってしまう様子を、
この目でしっかりと見届けてみよう、
自分が正気を保つ方法を、冷静になって考えられるだけの頭だけは
必死に留めておこう、と。
もう、そう思っている時点でかなり、参っていたのだけれど。
国民性を知るものとして、すでに差別は受けてきたから、
大方覚悟していたのにも関わらず
なかなか堪えるものだった。
何よりも、教育現場だけで9年間仕事をしてきて、
自分の回すプログラムの子どもたちから、
私の姿に口を塞いだり、なんでこの人が来ているの?と言われたりした時、
シリア難民へのいじめや偏見を取り除くための相互理解を促す
プログラムをやってきた身として、
一体、自分が今までやってきたことは何だったのだろう、と
無力感とともに、途方に暮れたし、
言いようもない焦りもあった。
このまま有耶無耶にして終わらせてはいけない、
そう思うと同時に、
自分が関わることで、今まで事業を助けてくださってきた人たちが
アジア出身である私と関わることで
周囲の人から非難されたり、排除される可能性も捨てきれなかった。
どう身動きを取ればいいのか、分からなかった。
それでも、自分がウィルスを持っていないことを、一人ずつ丁寧に話をし、
衛生教育など、国や状況に関わらず、必要である基本的な指導を
判断するのには十分な時間がない中、
半ば無理やりにでもプログラムに無理入れていった。
ウィルスへの、その時点で分かっていた情報が欠けていたことが気になった。
だから、活動の中で必要な知識を提供したこと、
それに付随してニーズのある衛生用品を配布したことは、
いくらかでも意味があったと思う。
徐々に現実味を帯びてやってくるウィルスに対して
ヨルダンでも、誰もが共通認識を持っているわけではなかったから、
自分たちでできる予防に注力を注ぎ、
地に足のついたことを中心に、幾らかでも日々のルーティーンとして
実行していけるような活動をした。
半ば、意地のようなものだった。
何もせずにやり過ごすには、
個人的にも、あまりに情けなかったし、
アジア人だからと何をされ、言われようとも、
ここの人たちに必要なことは冷静に判断して提供する、という
当たり前のことが、できなければ、
仕事をするためにヨルダンに居る意味がない、と感じていた。
本当は、ウィルスそのものより、それについての情報や
それらをうまく精査できない人たちの行動の方が怖かった。
知らずに行為として滲み出てしまった
偏見や差別を認識し、修正する力を身につける活動もまた、
ウィルスについて知ることと同じぐらい重要だと考えていたけれど、
学校が休校となって、時間切れとなった。
ずっと、気になっていた言葉があった。
当初、日本での対策スローガンのように、しばしば目にしたのが、
「正しく恐れる」という言葉だった。
何となく耳障りが肯定的だ、というだけで
実体が分からない言葉。
個人的に、「正しく」も、「恐れる」も
あまり使いたくない言葉だ。
私が散々こちらで恐怖に苛まれた人たちを目にして
恐れる、ことが引き起こす行動が多様で必ずしも
文字から想像する、屈んで身を震わせるような状況だけではないということを
体験したことも、原因かもしれない。
恐怖は人の行動をコントロールするに、一番手っ取り早い感情だ。
叩かれるかもしれない恐怖、叱られるかもしれない恐怖、
いじめられるかもしれない恐怖、無視されるかもしれない恐怖。
恐怖は行動を規制する。
でも、恐怖は行動を規制することもあれば、
その恐怖を払拭するために、攻撃をしてくることもある。
まさに、私が2月3月に受けてきたことだ。
「正しく恐れる」という言葉は、
寺田寅彦が随筆の中からの引用とのこと。
どの作品に入っているのか、記憶にないのだけれど
天災についての著作もあるから、その文脈で出てきたのかもしれない。
おそらく、過度に恐れるのではなく、
恐れる対象を正確に知り、適切な加減で
恐れを抱いて行動する、というところだろうか。
でも、恐れを予防行動の動機にしなくてはならないのか、
他に、最善の行動を取れるように促す言葉はないのだろうか、と
私はしばらく考えていた。
少なくとも、正しく、の詳細が分からなければ、
それこそ恐ろしい言葉だ、と感じた。
その正しさを確証するのに必要な情報は、
もしくは、その時々で分かりうる最善の行動するための情報は
果たして、どこまであったのだろうか。
何が正しいのか、を説明する記事もたくさんあったし、
それらの情報に意図的に、もしくは無意識にアクセスしない人たちの間の
情報格差を指摘している記事もあった。
ただそもそも、日本で出回っている情報自体に、不足があるように見えた。
2月下旬に一時帰国するつもりだった。
結局、日本に帰ったら、
ヨルダンに再入国できない可能性があったので、帰国を取りやめたが、
帰国するために日本の状況についてかなり仔細に追っていた。
それから、海外の大手のニュースをずっと同時並行で確認していた。
日本が、どのような空気だったのか、
私にははっきりとは、分からない。
ただ、日本のニュースサイトを見ていると、
データや確かな情報に基づいた記事と
そうではないもの、もしくはそれほど重要ではない、と思われる記事が
同じような比率、重さで扱われているように思えた。
明らかに、世界中で起きている同じウィルスへの対応に関する
フェアで均等な情報が欠けているように見受けられた。
結果的に、全体像が見えづらくなっていたし、
かなり確度高く、その先に待っていること、を提示していた情報が
その他の、さして重要ではないニュースに消されているように見えた。
海外のニュースにアクセスできる人はすでに、きちんと確認していただろう。
でも、ウィルスという共通の問題を扱う外国の動きについて知るため
日本語で情報を得ようと思っても、
目立つ事象の他は、よほど積極的に探さない限り見つけづらかった。
Al Jazeeraでは毎日トップで、
数字や政策が目立つものばかりだけではなく、ある程度均等に、
様々な国の状況と政策についての情報を
タイムラインに沿ってまとめて載せていた。
でも、似たようなものを開示している番組もサイトも、
私が確認する限り、日本にはなかった。
どんどんと他の国が結局、先を越して行く中、
自分の国で一日先も見えないまま、正しく恐れろ、と言われても
限界があるだろう、と思った。
3月初めごろにでさえ、すでに明日の生活にも困る方々がたくさんいらっしゃる中で、
それらの問題の方が大きく取り上げられ、
海外の細かな記事にまで目を向ける余裕など
なかったとしても、仕方がないのかもしれない。
ただ、状況が悪化する国ばかりの報道ではなく、
先手を打った国の決断の根拠やジレンマもまた、
頻度高く丁寧に扱われていたのなら、
いくらか生活に見通しがついている人たちにとって、
自分自身で考えるために必要な材料を手に入れることは、
もっとできたはずだと、考えている。
もっとも、不安を煽ってはいけない空気とか、同調圧力もまた、
情報の選別に大きく影響していただろうけれど。
気がついたら、いつの間にか「正しく恐れる」という言葉より
3密という言葉が頻繁に使われるようになってきたように見える。
そして、私が経験した偏見や差別が
日本国内でも広がっていること、
外国人だけではなく、医療従事者の方々や不特定の人と接触する機会の多い人、
また、その家族にも及んでいることに
ただただ、胸が痛んだ。
恐怖や不安は、正義感や倫理観など一瞬で吹き飛ばしてしまうものなんだ、と
再度、見せつけられることになる。
そして、それらを行動にしてしまう側の理由も洗い出されると、
様々な立場で結局のところ、同じような不安と恐怖を抱いていることが、わかる。
おそらく、一番に冷静さが、求められている。
特に、リスクの高いところで働いてらっしゃる方々に対しては、
自分や周囲のリスクを高めない冷静な行動を取り、
それと同時に、感謝を込めた心ある言葉を伝えられるか。
速やかに、偏見や差別の広がりを抑えようと、
様々な記事やサイトができていて、
そこは、さすがきめ細かな日本だ、と思った。
たぶん、ヨルダンではそんな差別があったことなど、
みんなすっかり忘れているだろう。
少なくとも外国人に関しては、早々に国境を閉め
みながこの状況をともに過ごしてきたから、
今のところは差別も何も、いつの間にかなくなってしまった。
自分自身は、そこまで反省が先に立たない、どうしようもない人間だけれど、
それでも、自分のした行動の振り返りは
それなりに意味を成す、と思っている。
この一連がある程度収まった時、
例えば、教育の中で今の状況を客観的に振り返る
プログラムがあってもいいのではないか、と
ぼんやり思っている。
政策や全体の流れや他人の行動ではなく、
自分自身の恐怖について、不安について、
それらがどうしてやってきたのか、
どんな情報を好んで取り入れ、どんな情報は無意識で排除し、
周りの状況をどう把握し、
自分をどんな行動に導いたのか、
一つ一つ、丁寧に見つめ、振り返る。
先に役立つ、lessons learnedとして。
時間が経つと、美化されたり、歪められたりするから、
それほど時間を置かず、心に負担をかけず、
でも、素直に冷静に見つめる時間を。