2020/03/08

やさしさの先に


やさしさ、美しく穏やかに見えるこの言葉について
それなりに考えたりしたことがある人は、
少なからずいるのではないか、と思っている。
語感にあたたかさを保つから、
文脈によっては、字面を見ただけで、
私も、時に安心したりする。

谷川俊太郎の「これが私の優しさです」とか、
フィリップ・マーローの名言、
「タフじゃなければ生きていけない、やさしくなければ生きてる資格がない」
みたいな、いろんなやさしさが、あるもの。

もし、やさしい人、が、心温かい親切な人であるならば、
そういう人に、私もなりたい。

やさしさは欲しい。自分にも、他者へも。
やさしさが溢れる時のあの、感情の緩やかな高まりや、
心が温まる感覚を抜きに、暮らしていくのは辛い。

でも時に、罠が潜んでいたりする。
やさしさに溺れ、甘え、
やさしさを押し付け、売ったりする。
感情に訴えるところの多い使い方が、あったりするのを考えると、
実のところ、かなり配慮して使わなくてはならない言葉だった。

なぜこんなことを書いているかというと、
広義に使い過ぎてしまったな、もしくは、
感情に訴える要素を出して使いすぎてしまったな、と思い当たる節があるからだ。

仕事の文脈の中で、共感について考えることが多々あるのだけれど、
やはり、共感もまた、感情的な部分に留まることが多い、というのを、
人との会話や自分の経験の中から、実感してきた。

だから、分かりやすく心動かされるものには、共感していただけても、
イメージがつきづらい場面になると、
さっぱり何にも、反応してもらえない、などということも少なからずあった。

そんなに共感がほしいわけではないけど、
分かち合う感情がないと、私も含め、人は動かなかったりする。

それから、やさしさがないと、
共感は負の感情からしか、もしくは、
自分の経験したことのある感情からしか、生まれてこないことになるだろう。

やさしさのない世界の共感は、窮屈だ。


日本語には、思いやり、という言葉もある。
どちらかというと、この言葉の方が
私が頭の中で漠然と持つ、やさしさのイメージに近い。
けれども、子どもの時分に道徳の授業で、
「重い槍」という字面を見てから、
使うのを躊躇してしまう傾向にある。


先日、日本語の教育関連の資料を英語にしながら、
thoughtfulとか、considerateの方が、
少なくとも思いやり、という語感には合っていることに、
ひどく納得する。
日本語にすると、思いやり、やさしさ、であると同時に
思慮深い、とか、熟考した、という意味。

あくまで言葉からのイメージと、私なりの認識だけれど、
なんとなく、一般的にやさしさは、ベクトルが自分発信、
considerateは他者の立場から考える、という
違いがあるように思える。

ただ、誰かの立場を想像できたとして、
完全にその人になることなどありえないし、
思いやる私、という存在を、徹頭徹尾消し去ることなど、
私を含めほとんどの人にとって、不可能だ。

そんなことはない、と言う人ほど、危険だと思っている。
あなたの気持ちがとてもよく分かる、と言う人とか、
寄り添いたいんです、と言う人とかも。

私は性格が悪いので、私のことを知らない人や、
伝えていることをよく分かっていない人が
そういうことを言うと、ふむ、と思う。

そういう人は、元々はやさしい人たちだ。
だから、究極的に分かり合えないし、寄り添い続けられないという事実を、
よく考えずに、言ってしまうのだと思う。
そして、そう口にすることで、嘘つきになってしまう。
だから、そのやさしさだけは感謝し、
結局あとは、こちらが口を閉ざすことになる。


あなたと同じ視点や立場に重ねて熟考(consider)し、
それでも、あなたの必要なことを私ができるならば、
手を差し伸べるのでも、助言をするのでも、
たとえ傍観するだけでも、行為にするのが
本来、思いやり、になるのかな、などと、
いくつかの言葉をこねくり回していた。

もっともこの場合、思いやりは、相手の性格や置かれた状況を
よく把握していてこそ、成立する。
相手が話したくなければ、ほわっとしたやさしさは届けられても、
思いやりは、本来、届けられないはずだ。


落ち込んでいる時、察してくれた知人たちが、
ロバート秋山のクリエーターズファイルを送ってくれたり
高木正勝のサントラを送ってくれたりして、
そんな、ふわっとした感覚的なやさしさの方が、
実は、抱える確信に触れるよりも、ありがたかったりすることもある。


でも、本当に思いやりという助けが必要なときには、
こちらも、詳細を冷静にきちんと、伝えなくてはならない。

やさしさの先に、
知りたい、分かりたいという思いが出てきて、
その次に、その素材を使って考える作業があって、
もう一度、自分のできる思いやりを、考える。
そして、自分の持てるやさしさを、見つめ、抱き直す。
相手が、社会がやさしさ以上のものを求めているのであれば、
感情的なやさしさから、
核のようなソリッドな思いやりを生み出すプロセスを
持っておくべきだった、と反省している。





「やさしさに溢れた世界」を、夢見ないわけではない。
ほわっとしていたって、いい。
特に、こんな時だから、よく正体の見えないやさしさでさえ、
あってくれたらいい、と思う。

でも、だからこそ、やさしさの先には、
considerateな姿勢で、頭をクリアにした、
適度に冷静な思考が、必要だ。

やさしくない私が、あまりやさしくない世界、という地平に立って、
でも、どうにかならないものか、とか、
自分自身、変われないものか、とか、
何が分かりうる、できうる最善の行為なのか、
悪い頭を掻きむしり、想像し、もがけ、
そういうことなのだと、思う。