2020/11/14

天国のはなし


考えてみたら、4日間の完全ロックダウンは3月以来だった。

久々のロックダウンで、
仕事とプライベートを分ける方法を忘れてしまって、
中途半端にずっと仕事をしてしまった。
ここ数週間週末もずっと
なんだかんだ、だらだらと仕事をしていた。


気分転換に映画でも見ようと思って、
日本にいなくて見られなかったけど、ずっと気になっていた
「ヘブンズストーリー」を観る。
2010年の映画。

なんで見始めちゃったんだろう、と初めの数十分は後悔する。
分かってはいたけれど、まったく気分転換にならない映画だった。
9話で編成されている映画の最初の1話目、
柄本明が孫を探すシーンで、胸を梳かれる。
そして結局、集中して最後まで観てしまった。
4時間半。


妻子を殺された男と、その男を愛する女と、
愛する家族を殺され、その男をヒーローと崇める少女と、
その妻子を殺した青年と、その青年を引き取る女と、
殺人を副職とする男と、そんな父親を持つ少年と、
その男に好意を抱く女と、その男から金をもらう女が
すれ違い、絡んで話が展開していく。

倫理が意味を為さなくなるほどの事象が起きうること、
人の心の冷ややかな場所と
熱く血の通う場所を、
きれいに整然と分けることなどできないこと、
遺恨を消し去る方法を探し当てるのは、
時として恐ろしく困難なこと、
復讐が生きる目的になりうること、
でもその先には、空白が待っていること、を
4時間半分の、精緻で丁寧な工程を持って、
描いている映画だった。

岩手の炭鉱廃墟の、冬と夏の景色と、
浦賀の団地のカモメと空と、
桜の並木が、美しかった。




戦争という恨みを生み出すシステムの渦中から逃れ、
それでもなお、強弱はあれど
難民として何かを恨み続けて仕方がない暮らしを
強いられる人々と接する機会が多いから、
一体、それを次世代に継がれないようにするには、
どうしたらいいのか、などと
壮大なことを、漠然と考えることがある。


恨み、について私個人に当てはめてみると、
恨む対象はシステムになることがあっても、
個人であってはいけない、と考えている。
あくまで、私個人の対処法だけれど。

ただ、周囲にいる人々にとっても、私にとっても、
恨むべきシステムの果ての戦争や独裁を
変革させるのにかかる労力は果てしないし、
システム変革へ、同じ方向に誰もを向かわせるのは
個々人では不可能に限りなく近い。
人のあらゆる欲は限りないからだ。


一方で、個人への恨みについては、対処の方法がないわけではない。

個人にもまた、恨む対象になる行為へ行き着くまでに
さまざまな事情がある。
もっとも、そんな事情など持ち合わせない、
徹頭徹尾、血も涙もない人もいるけれど、
そんな人はごくごく、わずかだ。

だから、その事情を丁寧に見て、理解していくしかないと、
考えている。
平たく、穏やかで和やかな心の状態が平和なら、
その作業にしか、心の中の平和はない。
恨むのに費やす労力は、途方もないから。


対象の事情をいくらか知ってもなお、
恨みが消せない時には、破滅が待っていることを
映画の最後の展開は示している。
最後の方の展開には、幾分解せないところがあったけれど。
そして、それでも、混沌としたまま
生死の混じり合う世界は続く。

個人の背景を丹念に見ようとしなければ、
もしくは、垣間見た背景を受け入れられなければ、
その先には物理的に、もしくは精神的に、
暴力的な行為が待っている。
映画の中の、その暴力性を消化も昇華もできず、
行き場もなくなってしまった人たち。


映画の中では、究極的な状況におかれた個人の話が絡み合っている。
その個人、に私がなる瞬間が、もしかしたらあるかもしれない。

少なくとも、日常の中にいくつも転がる事象として、
私が加害者になる瞬間、
そして逆になる瞬間もまた、いくらでもある。


誰しも、その人の心のうちを見つめ、把握し切るのは、
本人にとってでさえ難しい。
それでも、自分自身についても、相手についても、
その全貌を見ようと努力しなくてはならない。
相手のため、ではなく、自分自身のために。
自分が誰かを傷つけず、もしくは傷つけられてもなお
心の中に平和を抱きたいのであれば。



その丹念で骨の折れる作業を放棄した瞬間、
そんな暴力性を自分は持っていない、
とは言い切れなくなる時代に生きている。


かくして、さっぱり気分転換にならない。




あと、頭を真っ白にしたくて、
ずっとこのバージョンの新世界のアルバムを
無駄に高性能なイヤホンで聴いていた。

アラン・ギルバートの指揮を見ていると、
どうしてだか、とてもとても、心が温まる。
なんでだろう。




2020/10/25

友人の記憶


友人は、自分のことをこんな風に、
ネット上に載せられるのなんて、
絶対嫌だと思う。
でも書かずにはいられないので、記録して、残すことにする。

私は愛おしくて、悲しい。

私は、私の記憶を書く。
過去にしか存在しない記憶であり、
この先更新されることはない。




大学に入ったばかりの1学期のデッサンの授業。
講評で明らかに、一つだけ際立つデッサンがあった。
光と影を包み込むような、正確で、
でも柔らかでたおやかなデッサンだった。

その前から友人を知っていたかどうか、記憶ははっきりしない。
でも、あの石膏デッサンは今でも鮮明に思い出せる。

長い髪にスパイラルパーマをかけてきたことがあった。
アフリカのお面みたいでいいでしょう、と。
細い身体に髪のボリュームが不釣り合いで、
でも、とても格好よかった。

私のことをちょうさん、と呼んだ。
いつも髪をひっつめていたので、
中国からの留学生によく間違えられる話をしたら、
友人達と一緒に、そう、あだ名をつけてくれた。

日当たりの良い、2階建てのアパートメントに住んでいた。
自分で白いカーテンに付け替えていて、
少し色あせた畳がよく似合う、柔らかな色で統一された
落ち着く小さな部屋だった。
炊飯器のお釜の底に水がついたままスイッチを入れたら、叱られた。
私はがさつで、友人はどんなものでも
丁寧に扱う人だった。

知り合いの彫刻家のお宅へ、一緒に遊びに行ったこともあった。
とても尊敬する人を目の前にすると、
きちんとその敬意を、眼差しと態度で示した。
その家であったことの感動を、
言葉にする作業もまた、丁寧だった。

言葉を大事にする人だった。
小さくて、少し心許ないけれど、
フォントにしたいぐらい、滋味の滲むような
形のいい文字を書いた。
文字の形も書かれる言葉も、とても友人らしくて、
その人となりを、よく表していた。

犬みたいなマークが、名前の隣に描かれた葉書を
いつかもらったことがある。
犬みたいな、と書いたことに、きっと彼女は
わかってないなと、思うだろう。


猪熊弦一郎が好きだった。
大竹伸朗について、興奮して語っていた。
プリミティブな形態に、大学の頃は傾倒していた。
シンプルであること、その強さと生命力のようなものへの
憧れのようなものがあった。

陶芸に専攻を変えてからは、
彫刻の隣が窯芸の部屋だったから、
友人がロクロを引く姿を
よく眺めていた。

なんでもよく壊す私は、分厚くて安定感のいいコップが好きだった。
薄くて繊細な陶器の良さを教えてくれたのも、友人だった。

窯芸の部屋の裏には金木犀の木があって、
ちょうど今の季節、網戸ごしに金木犀の香りが
うっすらと部屋の中へ流れてきた。

時々、どことなく話したかったり、人寂しかったりすると、
窯芸の部屋の畳の上で、
友人が仕事を終えるまで、じっと本を読んだりして、
私は待っていた。

窯芸のおじいちゃん教授のことを
愛おしいおじいちゃんとして、よく楽しそうに話していた。
実家に遊びにきた時、なぜかうちの父親を気に入っていた。
枯れた学者のようでいい感じだ、と。

本人も学生の時は、少しいつも、猫背だった。
だから、真剣に猫背矯正ベルトの話をいつか、していたことがある。

家族の話も、たくさん聞いた。
お母さまが、いかに美しく優しい人か、
たくさんの逸話を話した。
お父さまが勤めていた日本の重機会社の車両を見るたびに
どこの国にいても、友人のお父さまの会社だ、と思い出す。
ユニックは会社名であることも、友人から教えてもらった。


興味のあるものを、深く探求する人だった。
感覚が鋭敏で、明らかに、圧倒的に、センスがいいのに、
それを論理的に裏打ちできるよう
自分なりに言葉にしようとすることを怠らない人だった。

それは、友人らしいけれど、私にはどこか、もったいなく思えた。
自信を持って、そのセンスがもっと自由に溢れていて
どこもおかしくなかったのに、
いつも慎重で、論理性を重じていた。

だから、本人は佇まいに雰囲気のある人だけれど、
雰囲気でごまかしてはいけない、というようなことを
いつか言っていた。


私は思慮が足りなくて、衝動的で、技術がなくて、
臆病で、そのくせコンセプトばかり壮大な作品を作りたがった。
友人は、深く考え、試行錯誤を繰り返し、
その思考と、自分の感覚の折り合えるギリギリを、
見極めようとしていた。

だから、作品も一見、素朴だったり、シンプルだったりした。
でも、その中には、果てしない計算があったり、
そんなものを一度放棄しようとする、格闘があった。

いしいしんじの本は好きだけれど、
「みずうみ」の書評は厳しかった。
いしいしんじらしくない、と。
おそらく、小説家だろうが、芸術家だろうが
音楽家だろうが、誰にでも好きな作家には、
友人なりの、あるべきスタンスがあった。



人生に明確な脈絡のない私は
専門のフィールドが変わってしまうと、
以前にいた世界の人々と、連絡を取らなくなる。
何を話したらいいのか、分からないからだ。
私は大してもう、美術の話ができない。
相手も、教育や支援の話など、興味がない。

でも、友人とは、会うことができた。
その人となりを形成する時期を幾らかだけでも、一緒に過ごしたから、
話がいくらでも、尽きず出てきた。

学生の時からそうだったけれど、
柔らかくて、いい素材の、淡い色の服をよく身に付けていた。
触れて、なでたくなるような服だった。
そういうものも、趣味がよかった。
服も靴も鞄も、肌も髪も指先も、丁寧に扱っていた。
私には真似できないけれど、だからこそ、
とても大切で、素敵なことだと、思った。

社会人になる頃には、
学生の頃に時折垣間見た厳しさは影をひそめ、
結婚した後は、ますます印象が柔らかくなって、
幸せであることが、ありきたりな言葉ではなく
佇まいから分かるのだということを、知った。


友人の住んでいた地方都市の、
とても美味しいコーヒーを出す喫茶店で、
私の紹介したRufus Wainwrightのコンサートへ行って、
Rufusがどれだけキュートだったかを、
目を輝かせて話していた。
私がその時付き合っていた、未来を描けない相手の話を、
呆れながら、でもおくびにも、どうしょうもない、
などという表情は見せずに、聞いてくれた。

ほっと落ち着く定食屋さんへも連れて行ってくれた。
日本食が恋しいという私への
彼女らしい、店選びだった。

ヨルダンへ行く時には、黒い薄手の綿の
レースの入った7分袖のカットソーをプレゼントしてくれた。
あっちのイメージはこんな感じだ、と。

たぶん、彼女は半ばおかしみを持って、
私の破綻した人生の文脈を、受け入れていた。



学生の頃、一緒に山中湖へ行ったことがあった。
湖畔に住む陶芸家の人の家へ向かう新宿駅の構内で
人をすり抜けてさっさと歩く私のバックパックに
友人は持っていた傘の柄をひっかけた。
「ちょうさんは歩くのが早すぎる」と言いながら。

その時、私が人をかき分けて進みながら、
「私は歩きながら死ぬんだ」と宣言した、らしい。
最後に会った2年前の冬、東京ミッドタウンのカフェで、
友人は十数年も前のことを、
おかしそうに笑いながら言う。
いつも通り、笑うとはにかんだようで、
眉毛がハの字になっていた。




今でも手元に、友人が作ってくれたアルバムがある。
Edward Sharpe & the Magnetic ZerosのUp from Below、
アルバム全曲の後に、Enrico CarusoのSei Morta Nella Vita MIA
シューベルトの弦楽四重奏D 956番第2楽章、
そして、最後に、アン・サリーの「椰子の実」。

この選曲も、センスがよくて、絶妙なバランスで、
最後に、すとんと、収まる。



亡くなることは、会えなくなることとも、
自分の世界から見えなくなることとも、違う。


人と関わってしか生きられないこの世の中で
私の目の前に存在する、亡くなった人についての果てしない真空が
どれほど、どこまでも、何もない未来なのか
私はよく、分かっていなかった。



まだ知らない、美しい音楽を聴くことを、
佇まいの落ち着いた皿の手触りを楽しむことを、
誰かの温かい手を握ることを、
しんと締った朝の空気から冬の気配に気づくことを、
心の中の何かをほどく映画を観ることを、
脳味噌を溶かすほどおいしいものを口にすることを、
曇りのない朝焼けを見ることを、
いくらでも、何度でも、
たった一度でも、
友人とまた、分かち合いたかった。





2020/09/14

祈れ呪うな、では、どうにもならないこと


祈ったって、何が変わるわけでもないことを、
身に染みて体感している。
呪いたいことが山ほどある世界であることも
痛いほど聞いてきた。

それでも、ある物事の渦中を見つめながら、
呪わずに祈ること以外のスタンスを持てないことがある。
その時の無力感は底無しだったり、する。

特に、こちらへ来てから、
何周も逡巡して、事象や人に対して、
祈れ呪うな、と願うしかない、
という経験を何度となくしてきた。



だから、この曲を批判するつもりは毛頭ない。
まさに、私自身が、あらゆる困難について、
どちらかというと日常的に、祈れ呪うな、のスタンスだ。
時には、自虐に身をやつしながら。


それでいいのか、というのは
結構長い間、自問自答のテーマだったりしたので、
久々にキリンジのアルバムリストを見ていて、
急にこのタイトルが気になってくる。
ビートのしっかり重い、でもグルーブ感のあるこの曲を
何度も繰り返し聴き、歌詞の意味をこねくり回し
唸ったまま、考え込んでしまった。

キリンジ兄弟がこの、原発についての曲をリリースしたのは2012年。

何かしらを作り表現することを仕事としていた人たちにとって
おそらく、震災が及ぼした影響を
一体どうやって表現したらいいのか、苦しんでいた頃だっただろう。

情報も言論も混乱した状況の中で作った曲のタイトルが、
おそらく、究極の皮肉も込めて
祈れ呪うな、だったのだろうと想像している。

考えてみれば、何か訴えたいことがある人たちよりも
実は相当難しい。
よくこんな微妙なところを描いたな、と
心底、感心している。



キリンジはずっと好きで聴いているアーティストだ。
弟が抜けてしまってからのアルバムは聴いていないけれど、
20年ぐらい前のアルバムも、本当におしゃれで、
ものすごい変則的な拍子やコード、普通は持ってこない転調とか、
結構な力業を、さらりとやってのける曲作りなのに、
結構ギリギリポップス、という際どいところを
攻めている感じが、ずっと聴いていても飽きない。


この曲をひたすら何度も聴きながら、
何かが今さらひどく、引っかかるものがある。

開いてしまった地獄の窯と、それに起因する苦しみや不安を
見聞きした時、当事者ではない人の中には少なからず、
祈れ呪うな、という、ある意味突き放した、
諦めを含む願いを抱くしかできなかった人もいたはずだ。

原発が避けようもなく持っていた危険性について
ことが起こった後、多様な意見が出てきた。
原発にまつわるあらゆる発言を見聞きしつつ
様々な異なる立場の人々の意見や論争を
見守っていた大多数。
私もまさに、その一人だった。





ずっと、大多数、が気になっている。

こちらの学校でクラスの様子を観察していると、
とても利発で、先生に名前を覚えられている子が、クラスに2、3人
どうにも問題が多くて、先生に名前を覚えられている子が、2、3人
そして、その他の子どもたちが、30人ぐらい。

その構造と割合が結構、社会にも適用されていたりする。

問題が多くて名前を覚えられる方だったけれど、
ある年齢ぐらいから、30人に入る方法を覚えた身としては、
30人だって、それなりにいろいろ思うところ、
考えるところがあることは、知っている。

ただ、直接の当事者ではないから声を上げられなかったり、
考えがあっても見守るにしても、実のところ
多様な背景と多様な立場と多様な言い訳が、あったりする。

ある問題に対して、おかしいと感じながらも、
当事者と同じ地平には立ちきれなくて、
もしくは、自分の考えの正当性に自信がなくて、
どうにも身動きの仕方が分からない。



祈るのも、呪うのも、その対象は神でも自然でもなく、
本来、人か、社会の構造である。
そして、社会の構造はそのまま、自分たちの一つ一つの
選択と行動から出来上がっている。
だから、呪うのは己自身、ということになる。

でも、神か自然か運命という、どうにも手の下しようのない存在に対して、
呪ったり祈ったりする行為を通して、
責任の所在をうやむやにしてしまう傾向が
なかったわけではない。
少なくとも私は、身に覚えがある。


あの時、祈れ、呪うな、というスタンス以上の
強い語気が使えず、立場も明確にできなかった時期から、
ある程度時間が経った。

ただ、ひとつ分かったことは、
祈れ呪うな、で時には、
自分の気持ちを慰めることはできても、
問題は何も解決しない、ということだ。


その根本的な解決にならない行為に対する皮肉と批判、
あの無力感を思い出し、
いい加減、やめた方がいい、と自戒の念が巡る。




2020/08/07

しゃがんで、目を瞑らせる


乾燥の激しいこの国では、何もない荒野を歩くと
時々、羊かヤギの骨に出くわす。
その度に、デッサン用の牛骨を思い出す。
谷底にある骨は、崖から落ちた羊やヤギだ。
だから、肉が朽ちた後、骨と少しの毛だけが残っていたりする。

例えば、羊を絞めるシーンは、
何度見ても、小さく、大きく、衝撃を覚える。
生きていたものが、そのナイフのひとかきで、息絶える。

イードアルアドハーという祭日は、
羊や、場合によっては牛やヤギやラクダを捧げる。
預言者イブラヒムが、神への忠誠を誓って息子を生贄に差し出そうとした時、
息子の代わりに羊を差し出すように、と言う天使の言葉に従い
羊を絞めて捧げたという話に由来する。

絞めた羊を貧しい人々に分け与える日、ともなっている。

実際に、地域の羊肉を配る人もいるし、
羊肉を扱う業者にお金を寄付して、解体配布をお願いする人もいるし、
家族親族で分ける人もいるし、
隣の国のようにお金だけはたくさんある金持ちのいる国には、
大量に絞めて、結局食べられずに捨てたりする人もいる。



今年は、羊やヤギを飼いともに暮らしている
今ではいくらかヨルダンでも珍しくなってきた、
べドゥインの家庭で、羊を絞めて料理し、いただくところまでを
ご一緒させていただいた。

彼らが選んだ羊は、まだ6ヶ月の子羊だった。
まだ、身体つきも小さくて、毛もふわふわしていた。
家族や親族の子どもたちがまだ、跨って押さえておけるぐらいのサイズだ。

彼らがどれぐらいの頻度で羊を絞めるのか、分からない。
5歳から12歳ぐらいまでの子どもたちは、
父親と母親に頼まれて、逃げていかないように子羊を捕まえていて、
その様子は、羊と戯れる子どもの図とあまり変わりがなかった。
彼らは羊やヤギと一緒に暮らしている。

ただ、いよいよ絞めるために地面に寝かせようとした時、
子羊の動きと気配が、明らかに変わる。
それでも、抵抗するにはまだ小さすぎて、
奥さんと子どもが、前脚と後脚を掴んで寝かせ、
ご主人のナイフが首元にすっと入るまでに、
いくらの時間もかからなかった。

首と胴体が、皮一枚でつながった状態で、しばらく血抜きをする。
神経反射なのか、何度か体だけがバタバタと痙攣する。
それも、数回で、そのまま子羊は動かなくなる。
さっきまで生きていた子羊が、もの、に変わる瞬間だった。

周りで見ていた男の子たちは、少し静かになる。
でも、彼らはある程度慣れているのか、
もしくは、やはり見るのはあまり好きではないのか、
どこかへ遊びに行ってしまった。

8歳の女の子だけが一人、子羊の脇にしゃがんで、
一生懸命子羊の目を、閉じさせようと
何度も何度も、まぶたを手で押さえる。

本意ではないけれども、観ることになった
近隣国の広場に投げ出された首のない、もしくはひどい傷口を晒した
死体の映像を思い出す。

ぼうっと横たわる子羊を眺めていると、
奥さんが、悲しいのね、と言う。



毛皮を剥がす。
後脚の関節の皮を削ぐ。
肉と毛皮の境目が見えるように切ると、
そこから極力ナイフは使わず、手の力だけで
毛皮を剥がしていく。
掌を丸め、拳を境目に入れて押していく。

途中から塀に吊り下げて作業をする。
その方が明らかに、効率が良さそうだった。
夫婦は壁にかかった肉と向き合う。

奥さんの色鮮やかな服が、
肉を覆う白い膜と黄土色の壁の中で
随分と美しく見えた。

後脚から始まった毛皮を剥ぐ工程が
最後に首まで到達すると、毛皮を下へ引っ張る。
つるり、と首から毛皮が剥がされると、
全身の毛皮が逆さになって、抜け殻のようになった。

でも、内臓はまだ残っている。
逆さにつられて突き出た腹へ、縦にナイフを入れると
中身がどろり、と勢いよく出てくる。
胃袋と腸だけを除くと、
肺や心臓、腎臓や肝臓だけを丁寧に胴から外し、
金属のたらいに入れていった。
その頃には、吊るされた肉の塊はすでに、
肉屋で見慣れた姿になっている。

あっという間の手慣れた作業だった。

胴体の解体も吊されたまま手早く済ませ、
最後に、頭の皮を剥いだ。
頭だけは、胴体のようにすっと毛皮は剥げない。
飼料用のビニール袋の上で、
頭の毛皮が削がれていく。

毛を削ぐために角度を変えられる頭を見ていたら、
一瞬だけ、陽を受けて目が、様々な澄んだ青色に輝いた。
虹彩も働くなった目の内側で、瑠璃色の輝板が、
光を受けて反射するからだ。


時折力を込めなくてはならない場面がありつつも、
淡々とさばかれていく工程は
牛肉や鶏肉を食べる私にとって、誰かがいつも
自分の代わりにやってくれていることだ。

私ができるだけその工程を淡々と見続けていたのは
ただただ、彼らの手際のよさへの感心からでもあったし、
つぶさに見られる数少ない機会を逃すまいとする、欲深さからでもあったし、
この工程をしてくれる彼らへの敬意からでもあった。

けれども、一瞬見えた、あの青緑色の瞳には
羊が生きものだったことを不意に、強烈に思い出させる。
こちらの身体の深部をえぐるだけの、鋭い意思が残っていて、
いくらかなりとも、動揺した。

必死になって、目を閉ざそうとしていたあの子を思い出す。




内臓はそのまま、台所で細く切られる。
心臓が、随分小さく見えた。
腎臓と肺と心臓と肝臓と尻尾の脂を
玉ねぎと一緒に炒める。
塩とカレースパイスを入れて、味を整える。

肉も部位ごとに切られる。
水で洗うところだけ、手伝わせてもらう。
もう温度もなくて、ただの肉になった。
頭を洗おうとして、前歯を凝視してしまう。
半年ならば、春先の柔らかい草もたくさん、食べていただろう。
でも、もしかしたらその頃には、まだ
乳を吸うのに必死だったかもしれない。

肉もまた、あばら肉も腿肉も頭も一緒に
大きな鍋で煮る。
子羊の胴体は、そのほとんどが一つの鍋に入ってしまった。

この日は、臓物は炒め物に、肉はマンサフになった。
マンサフはヨルダン人の一番の好物で
羊肉と、その煮汁で炊いた米に
酸味のあるヨーグルトソースをかけていただく。

この過程のマンサフのソースは
ヤギのミルクを煮立てて常温で冷ます天然のヨーグルトを
煮汁とスパイスで溶いて作られていた。


臓物は、一つ一つ、臓器の種類を確認しながら食べる。
朝焼いた、薄い膜のようなパンのシートに包んでいただく。
肺はあまり味がなく、心臓は弾力があった。

マンサフもいただく。
頭蓋骨が容易に想像できる頭が乗った大きなお盆から
米と肉を皿に取り分ける。
他のところでいただく時には感じないのに、
その日は、臓物とマンサフの味に、どこか生々しさがあった。

むろん、調理方法のせいではなくて、食べ手の問題だ。

こちらで羊を絞める時には、
恐怖に慄いたまま死んでいくことのないように、
羊の目にナイフなどは見せないようにする。
苦しまずに死ねるように、首のどこを切ったらいいのか
子どもに教えている家族と一緒に、イードを過ごしたこともある。

あの映像の撮られた周辺の国々で、人を殺した人々もまた、
このイードには、羊にナイフを見せずに急所をついて
羊を絞めているのだろうか。
もしそうだとしたら、その行動は
どのような思考のもとになされるのだろうか、とふと、思う。



日差しはとても強いけれど、風のよく吹く日だった。
カメラを持ってきたので、写真を撮ろうと外へ出る。
そこへ、日本の過疎地なら複式学級ひとクラス分ぐらいはいる
近所の子どもたちがわらわらとついて来て、
カメラに興味を示す。

一人2回だけ、とルールを決める。
子どもたちは、他の場所でカメラを出す時の子どもたちの反応よりも
よほど大人しくて控えめで、よく話を聞いてくれた。
一番小さな、4歳ぐらいの女の子にも、
男の子たちはきちんと順番を回してあげていた。

久しく無人の別荘から、葡萄を一房ちょうだいして来た子たちは、
黄緑色のきらきらした葡萄を頬張る。
色が黒い方が甘いんだけどね、と女の子は言う。

子どもたちは、羊やヤギの説明をしてくれる。
あのヤギは主で名前がある、とか、あのヤギは何歳だ、とか。

子どもたちがゴロゴロできる小さな小屋は
高床式倉庫のような形をしていて、
下には、日差しを避けたがる力の強いヤギたちが
蹲って、涼をとっていた。
高床のスペースが気持ち良さそうなので、お邪魔してみると、
生後10ヶ月ぐらいの、みるからに丈夫そうな赤ちゃんが、
仰向けになって気持ち良さそうに寝ていた。




家に戻って、子どもたちの撮った写真を見る。
周りに急かされて、慌ててシャッターを切った写真がほとんどなのだけど、
どの写真にも、羊やヤギが、中途半端に見切れていて、
ヤギや羊を撮りたい、という意識はなかったのだ、と分かる。
おそらく、彼らの景色の中で、羊やヤギは
特別なものでは、ない。

私に、自分と近い地平にいる存在として、
家畜を見る視点を獲得できる環境はない。
だからなのか、彼らが子どものうちにしている
様々な生きものとともに暮らす、そして
生き死にを目にする経験が尊く思える。
子どもたちがその経験をどのように捉えているのか、
想像してみようと思ったけれど、うまくいかない。




パソコンの画面で見る
首を切られた直後の横たわる子羊の顔と、
たらいに乗った臓物に、
食べていた時には忘れていた、過去の残虐な映像が再度蘇り
どうして、都合よく思い出さなかったのかぼんやり考えた。


何もかもを一緒くたにしてはいけない。
羊は家畜であり、食糧であり、
私はビーガンでもなければ、動物のwellbeingについて
声高に訴える何かしらも持ち合わせてはいない。

ただ、ある時点で何も感じなくなること、
思考が止まることへの恐怖のようなものが、
じわりと心の中で、小さな黒い染のように滲む。

人も生き物である以上、
息の根を止めさせる方法は羊と変わりがなく、
場合によっては人を直接的に、間接的に、殺す人もいる。
憎しみや欲望や、もしくは、社会の構造や戦争により、
心を失ってしまったり、
想像を働かせる思考が止まる状況の中で。

都合よく、自分や近しい人、会ったことはないけど知っている人と、
自分には無関係な人たちを分ける能力を
身に付けていたりする。
その能力で、自分に無関係な人たちの死と
サバンナでライオンに急所をつかれるエンパラの死を、
同じように処理し、いくらの想像も遮断ているのではないか、
と思いが巡り、ぶるっと頭を振る。

もしも、そうだとしたら、
羊は儀式に則って、ナイフを見せずに静かに絞めるけれど、
ある原則や正義に則って人は残虐に殺せる人々と、ある意味で、
同じような思考停止機能を持っていることになる。

心を失い、想像が働かなくなるきっかけが
意外とそこらじゅうに溢れる情報と言葉の中に
転がっている。

だからこそ、誰かの、何かの死に対しての、
ひたすらな悲しみや喪失感から、
もしくはたとえ、息たえた誰かや何かへの
憎しみや欲望があったとしてもなお、
せめて、目を瞑らせてあげようという敬いが
自分にも他人にも、どこかで存在していてほしいと、切実に願う。


日本のように屠殺業者が担ってくれている社会の中では
生きているものの命がなくなることが、どのようなことなのか、
目にする機会など、少ない方がいい。

ただ、もし命がなくなる瞬間を目にしたならば、
生きることと死ぬことがどんなことなのか、という
とかく抽象的になりがちな事象の断片を
道徳とか、倫理観に照らし合わせるのではなく、
本能的な恐怖と混沌の中で、感覚的に知る機会なのだと思う。

そして、そこから生きていることの意味について、逆説的に、考える。

まぶたを閉じさせようとする女の子の、その反応が
羊であろうが人であろうが、死だけではなく、生に対しての、
根源的で純粋な姿勢だったはずだ。
尊び、敬うこと。

何も感じていないのではないかという不安で
怖くなった時には、せめて
あの女の子を思い出すことにする。




2020/08/02

彼らの暮らしと、話の断片 長い自粛の果ての、イード


毎年、イードアルアドハー(犠牲祭の祝日)は、
道端の羊市を尻目に、移動していた記憶のほうが多い。

でも、今年はドナーからの移動制限がかかっていて、
県境を越えることが、叶わない。

日本に住む難民の方々についての討論会を見ていて、
仮放免の難民申請者が、県境を越えるのに許可が必要である事実を知る。
この状況から学ぶことの多さ、そして、
自らの想像力の限界と、経験することの意義について
あらためて考えさせられる。

不必要に苦しい思いなどしなくても、
想像力で埋められるものがあるはずだ、と言う意見もある。
けれども実際のところ、実感しないとわからないことが、
少なくとも私にとっては、多すぎる。

加えて、経験をどの事象とつなげるのかは、
実のところ、興味関心に寄るところが大きい。
おそらく、私のまだ知らない、想像力の及ばない何かに、
この状況はまだ、いくらでも当てはめられるのだろう。



仕事柄、より自粛ムードは助長されていく。
支援関連の仕事をしているのに、万が一
裨益者への感染の原因になったなら、目も当てられないない。
だから、限りなくリスクを減らす生活が余儀なくされる。

個人的に知っているお宅へ伺うのも、躊躇する。
なぜなら、明らかに360度どこからどう見てもアジア人の私が、
誰かの家に行くところが、心ない噂の原因になったら、
これもまた、迷惑にしかならないからだ。

ヨルダン人の家なら、まだいい。
噂を払拭するだけの、大きな声を持ちうるから。
けれども、コミュニティの中でマイノリティの難民宅であれば、
その近くで感染者が出た時、自分の訪問が
彼らを窮地に追いやる可能性もある。

そんな時に、あなたが家にきたから責められて大変なのだ、
と言ってくるような人とは、元来友達ではないということにも、気づく。
優しいシリア人ばかりが知り合いだから
何かが起きたとしても、私には連絡してこないだろう。

非人道的だと罵られたら、自分の非はいくらでも認める。
ただ、お金ばかりをひたすら無心してくる人を相手にし続けられるほど、
私一人では強くもなければ、根本的な解決を提示し、
実行し、見届けられる力もない。

ひたすら後悔と言い訳をしながら、
この国で、同じくマイノリティである私は、
結果、身動きが取れなかった。

自ら行動を規制していく過程を、これもまた実感する。
そして、結構、まいってしまった。



ヨルダンは今のところ、市中感染数がほとんどない、といえるほど少ない。
かなり、抑え込みに成功していると言える。

でも、イード明けには空港が開く。
確度の高いシナリオを予想した時、
この休みに会いに行かなければ、もしかしたら、
この先にチャンスはないのかもしれない、と思い当たる。

そんなことをぐだぐだと一人、考えあぐねているところへ、
知り合いから、イードの挨拶を兼ねたメッセージが届く。
子どもたちが会いたがっているから、遊びに来てよ、と。

二つ返事で、伺うことを約束する。




お土産を買いに、スーパーへ行く。
羊肉の塊と、お菓子と果物。

子どもたちへのお土産も探す。
お休みだから開いている店もまばらな街の中で、
適当なものが見つからず、途方に暮れていると
路上でおもちゃを並べ始めるおじさんが目に入った。

どんなものでも1JDだと言う。
子どもたちが一瞬で飽きてしまうような、
もしくは、一瞬で壊してしまうような、
プラスティックのやたら明るい色合いが、並べられていく。

銃が男の子たちには、一番人気なのは、知っている。
初めてヨルダンに来た年のパレスティナキャンプで
あらゆる種類の銃を持った子どもたちが
いたるところで撃ち合いをしている情景をみた時には、
胸が塞いだ。

ただ、これはどうしようもなく人気のようで
毎年毎年、パレスティナキャンプでもシリアキャンプでも
見受けられる光景だ。

結局、矢尻の代わりに吸盤のついた弓矢のセットを見つけて、購入する。
ちょっとやってみたいな、と思ったからだ。
それに、原型が武器であることには違いないけれど、
今日日弓で人を射ることは、ない。

ついでに、自分のための使い捨てマスクを探そうと
おじさんにマスクを売っている店は知らないかと尋ねたら、
うちにあるよ、と自慢げに、まだ並べていない商品の入った段ボールを開ける。
子ども用のマスクを見つけて、即決で子どもの人数分を買う。
学校が始まったら、絶対に必要になるから。


総額を考えたら、現金の方がうれしかっただろう。
お金をあげないことをポリシーとしていることが、
いよいよ正しいのかどうか自問する。






玄関脇に敷かれたマットの上で、
一番下の子が気持ちよさそうに寝ていた。
風が扉の向こうからやってきて、直毛の黒い髪を撫でていく。

お母さんはいつも通り、ふかふか笑いながら、出迎えてくれる。
お父さんも、寝ている息子を気遣っているのか、
小声で、ようこそ、と呟く。
白髪のいよいよ増えてきたお父さんと、
どんどんふくよかになっていくお母さん。


お土産をすべて渡し終えると、早速
下手なアラビア語を必死で使って、近々の様子を尋ねる。

学校はずっと閉まっていたけれど、
先生たちが丁寧にフォローしてくれていたようだ。
学習用のテレビチャンネルを見て、その後、先生たちとSNSで宿題をする。
子どもが3人いたら、3人分のSNSグループができる。
お母さんの携帯電話からは、グループからの通知音が絶え間なく、なり続ける。

先生たちは本当によく面倒見てくれて、
ついでに私も勉強できていいのよ、とお母さんは言う。

ここのお母さんは、小学校を出てからすぐに、
お針子さんとして、働きに出ていた。
長女で、下に3人の妹と二人の弟がいて、
働かなくては家計が支えられなかったからだ。


日本の様子はどうなの?と尋ねられる。
日本の今の状況は、なかなか説明しづらいが、
事実を端的に、話す。
そうじゃなくて、ご家族は?と訊いてくる。
みんな元気そうです、と言うと、
あぁ、よかったわね、と顔が綻ぶ。

台所では、美味しそうなスープがすでに出来上がっていて、
すぐに食事が始まる。
ブルゴル(小麦を砕いて炊いたもの)をパスタと一緒に炊いた主食と、
裂いた鶏肉をヨーグルトスープで煮たスープが出てきた。

イード中だけは、近所での買い食いを許されている子どもたちに
あまり食欲はない。
せっかくお母さんが作った食事を、
何度も身体を揺さぶられてやっと起きた一番下の子だけが
半分寝ながら、食べていた。
上の二人は外で走り回って疲れたのか、
水ばかりをごくごく飲んでいる。


食事が終わると早々に、風の気持ちいい屋上へ移動した。

以前来た時に、試行錯誤の末に設置した日除けの下には、
ソファーとブランコ、テーブルとたくさんの植物がある。

無花果、レモン、ハイビスカス、
ぶどう、セイジ、それから、種類さまざまなジャスミンが
鉢やバケツに植えられていた。
大きくなってきたら、どうやって鉢を変えるのか尋ねたら、
一度割ってからもっと大きな容れ物に、土と一緒に植え替える、と言う。
どの容器もプラスティックでできているから、割ることができるのだ。
屋上に植物を増やしていくことへの躊躇いのなさの理由を知り、
ひどく、腑に落ちる。

さっきまで居間にいたオウムも、一緒に屋上へやってきた。

このオウムはお父さんの声にだけ反応する。
前に来た時には、コーランの朗読に合わせて鳴いていたけれど、
今は、猫の鳴き真似ができるようになっていた。
猫の鳴き声、とお父さんが言うと、
声音を変えて、鳴き真似をするのだ。

でも、私が近くに寄ると見知らぬ人間に警戒して、
オウムらしい、ギザギザした声を連発する。

お土産の果物とお母さんの作ったお菓子とコーヒーが
屋上のテーブルの上に並ぶ。
フェンネルとゴマが入っている私の好きなクッキーだった。

オウムも桃をもらって、
器用に中身だけを食べると、皮を下に落とし
食べ終えると止まり木で、嘴を拭った。



お父さんはずっと携帯をいじっていているので、
私はお母さんと話をする。

会話の途中で、通知音がする。
トルコとエジプトにいる姉妹たちのSNSグループで
音声を送り合っているのが、自動再生される。

そっちはどう?
とりあえず元気。
でも暑くてやってられないわ。

近所に住んでいる、お父さんのお兄さんの兄弟もやってくる。
まだ3歳の小さな男の子が、私が路上で見つけた極彩色のおもちゃよりも
よほど立派な銃をすでに、持っていた。

子どもたちはビービー弾が撃てるおもちゃの銃を持っていて、
銃を示す単語を一つしか知らない私が、
その単語を口にするたびに、いや、これは機関銃なんだ、と
言い直された。
2年前には、もっと小さなおもちゃのピストルを持っていた。

何度言われても、銃の種類の違いを示す単語は、覚えられない。

そういえば、さっき携帯電話で見せてくれた
お父さんの兄弟のうち、シリア国内に残っている長男は、
迷彩色の服を着ていた。
自警団のようなところに入っているらしく、
非接触の体温計を使って自分たちで街の中の検温を、
行なっている、と話していた。
あの人は、子どもがいないからそんなこともできるの、と
お母さんは呟いていた。

来年のイードは、銃の代わりに
おもちゃの体温計が人気にでもならないだろうか。



一番下の子は、今事業をしている学校に通っている。
学校の遠隔授業について聞きたくて、お母さんと話をしていたはずなのに
そのうち話は、ロックダウン中の支援の話になる。

知り合いで地域の支援をしているヨルダン人は
支援先を選り好みするから、うちには羊肉も届かなかった、とか
3月に世帯主の亡くなったすぐそこの家族にも
足を怪我していて動けないのに、支援しなかった、とか。


それから、国連機関の支援状況についての話に変わる。
説明を受けても要領を得ない私のために、
シリア人用のコールセンターの電話受付がどのようになっているのか、
実際に電話をかけて、実演してくれる。

なかなか、システマティックになっていた。
音声ガイドに従って登録番号と自分の電話番号などを入力すると
支援対象か否かを、折り返しの電話で通知されるようだ。

一度もかかってきたことなんてないわよ、とお母さんは言う。
ヨルダン人も失業率が上がっている今、
この状況下で、細々ながら仕事が続けられているこの家庭に
電話が折り返しかかってくることは、ないだろう。

そのことを遠回しに口にしようか迷っていると、
話は登録証の更新に流れる。

炎天下で、朝一からずっと並び続けて、
夕方までかかってやっと更新できる。
家畜じゃないんだから、あんな暑いところで
何時間も待たされるっておかしいじゃない、と。

難民数も多いから、1日に更新申請をする人数も、相当だろう。
ざっとアンマン市内に登録している難民数を思い出して計算してみても、
うまく均せたとして、一日800人ぐらいになる。

だからと言って、800人だろうが、2000人だろうが
炎天下で、もしくは冬の冷たい雨に濡れながら
待たなくてはならない人たちの苦痛は、変わらない。
黙って一通り話を聞いた後、
システムが改善されていないのが良くないですよね、と
苦渋のコメントをする。

そんなことを話していると、
夫婦の、口調に少し刺のある話し声に反応してか、
オウムがギザギザな声を繰り返し張り上げながら、話に参戦してくる。
正直、うるさくて会話にならない。

話を中断させるオウムの役割について、
いくらか理解できた気がした。
梨木香歩の「村田エフェインディ滞土録」を思い出す。


屋上から見下ろして視界に入る、
道路の端から端までを行き来する子どもたちは
水を飲みに来るほか、ほとんど家に戻ってこなかった。
子どもたちが下の道路で遊ぶ様子だけを、
屋上からお母さんと一緒に、眺める。

すっかり大きくなった子どもたちのうち、
長男と次男は、歳の近い親戚の子と
あちこちへ歩き回る。
いくらか駄々っ子な一番下の子は、
お兄さんたちの遊び相手にはならないようだった。
少しふてくされたまま、お兄さんたちの後ろを
パタパタと足音を響かせながら、ついていく。

お父さんは相変わらず携帯をいじりつつ、懸命にオウムへ話しかけ、
お母さんと私は、夕日が沈むのを、見届ける。

向かいの家の屋上で、女の子が自転車に乗っているのが見える。
自転車を女の子が乗るのは、珍しい。
お母さんも乗れるの?と尋ねると、
私はダメだけど、下の子たちは5、6年生までは乗っていたわね、と言う。
移動するなら、自転車よりもシリア製のバイクの方をよく見たわね。
もぉとぉ、って言うのよ。





配水車の補助の仕事をしているお父さんの朝は早い。
子どもたちは、9時には寝てしまう、と話していた。
それならば、もうそろそろお暇の時間だろう。

お礼を言い、ソファに投げ出された弓矢のセットに目を落とす。

大きくなっちゃったのに、私、何だか
あの子たちには合わないおもちゃを、持ってきちゃって。
そう思わず、口にする。

きっと後で家に戻ってきたらまた、遊ぶわよ、と
お母さんはふかふか笑いながら、別れのキスをしてくれた。

帰りの車がやってくると、道路で遊んでいた子どもたちが
見送りに集まってきた。

急に、少し寂しくなる。
私ばかりが車の中から、一生懸命子どもに手を振り、
子どもたちは薄暗い街頭の下で、
小さな手のひらと、おもちゃの銃をふって挨拶してくれたり、する。




次に来られるのは、いつなのだろうか。
どんどん、子どもたちは大きくなる。
半年来なければ、しっかり半年分、
一年来なければ、しっかり一年分。

羊の腸詰料理を、一緒に作ると約束していた。
暑い時期は調理に向いていないから、
10月か11月を過ぎた頃がちょうどいい、と
お母さんは言っていた。

その頃、私がヨルダンに居るのか、
この家に遊びに来られるのか、分からない。



お父さんが仕事も見つからず、腰痛もひどくて
シリアへ帰ろうかと思い悩んでいた頃に
この家へ訪問した数年前のことを思い出す。
お父さんの口調とともに、部屋の中も真っ暗な空気が流れていて、
子どもたちの声だけが空気を察してか、妙に明るかった。

今は仕事があるからいい、でも、この先は分からない。
ただ、先が見えないことなど、今に始まった話ではない。
もう7年も8年も、先は見えないままだ。
それでも、近い将来が見えない暮らしを、何とか踏ん張って、
子どもたちが遊び回り、オウムを飼って、美味しいスープの飲める
今がある。


先が何も見えないことがどれだけ不安なことなのかを
いやと言うほど、身をもって体感している今、ようやっと、
その踏ん張りに要した苦しさと強さが、どれほどのものだったのか、
ほんの少しだけ、分かった気がした。

そして、経てきた年月の果ての温かな空気から、
限りない安心を、感じとる。