ヨルダンで一番注意しなくてはならないのは、交通事故だ、
そう、いつも走りながら、思う。
とにかく気をつけろ、と、自分に云い聞かせている。
でも同時に、考えるうる死に至る可能性とその状況の詳細について、
想像しながら、走ったりする。
備えあれば、憂いなし、などと思い、
いや、こういう思考回路に当てはまらないな、と
走りながら、鼻で笑ったら、鼻水が出る。
決して、健康志向で走っているわけではない。
一見、健全に見える行為をしているのは、
精神のみ、消耗する日々の中で、
走るのも悪くないだろう、と思い直したからだ。
けれども、結局こんなことを考えているのだから、
性の根がとことん、腐っているのだろう。
ついでに、気づいたら、
不慮の事故か、自ら命を絶った人たちの音楽ばかり聴いていて、
なんだかな、と思いつつ、
走りながら、ある程度冷静に、
記憶している彼らの死に様について、
あぁ、もう走りたくないな、と身体の声を聞きつつ、
思い出したりしていた。
彼らは、いい音楽を作ったから、
その死に様を思い出す私のような赤の他人が、存在する。
人さまには、それなりにまともな仕事のように思われることを
器でもないのにしている。
他人には、描き得る、幸せな生き方をしてほしいと
心から思う。特に、子どもたちには。
それは、本心だ。
ついでに、犬猫、小鳥にネズミまで、
命は大切にしなさい、と子どもたちには、云い聞かせている。
けれども、自分に関しては、
あえて語弊を気にせず、正直なところを云うならば、
そこまで、生きることに消極的でもないけれど、
取り立てて積極的でもないのかな、と
かなり信憑性高く、思っていることを、
最近、実感したりした。
その事実を、なんとか肯定的に捉えようとして、
ある意味、思考とは逆説的に、結構必死で、走っているわけだ。
理不尽と不平等ばかりしか見えない世界の中で
無視され、抹殺される死もある。
それから、どうしてこんな目に遭ってしまったのだろう、と
偶然と不幸が重なる死もある。
どちらも、私の周辺ではかなり当たり前に、ある。
命の価値は同じだ、とか、命は平等にある、
ということが、揺るぎない世界の信条であるならば、
自分の命もまた、同じ世界の、同じだけの運を持つ状況下で、
本来、語られるべきものである。
でも、実際は違う。
殊、生きる世界については、決定的に異なる。
たぶんよほどお気楽な人か、傲慢な人でもない限り、
違う、ということにもまた、
うっすらと、もしくは、骨身にしみて、感じている。
まともな世界にいる人たちは、
あぁ、良かった、こんなちゃんとした世界の中に生きているのだから、とか
それでも、この社会のここに、改善の余地があると思う、とか
彼らはもっと、問題意識を持って声を上げなくてはならない、とか
お金に困らない暮らしができているのだから、
そんな理不尽な状況にいる人たちを助けなくては、とか
思ったりするのだろう。
そして、骨身にしみている人たちは、
理不尽な社会への悪態もつき切って、疲れ果てている。
なぜなら、あまりにもどうにもできない荒野が、
彼らの前には山の縁も見えないぐらい、広大なのだけは、
わかっているから、もしくは
悪態をつく前に、行動に起こし、
何かを変えようとして、亡くなる人たちを見てきたから、もしくは
理不尽でもいいと思っていたのに、戦いに飲まれて
亡くなった人たちを見てきたから、だ。
(私もまた、大きな社会の構造を俯瞰し、たくさん話を聞き、
あまりにも理不尽であることの、どうにもならなさと、
それに翻弄される人たちの疲ればかりを、感じ取って、
何もかも徒労に終わる、と思ったりする。)
それでも、彼らが、人としてきちんと生きよう、と
日々の暮らしを続けるとき、
何が彼らを支えているものは、ものすごく小さな、
日々の喜びだったり、する。
子どもの咳がやっと止まった、とか
畑でもらったブドウがよく売れた、とか
自転車につけるかっこいい飾りが手に入った、とか
いい点数が取れて、先生に褒められた、とか
チャージができて家族と電話できた、とか
居なくなった鳩が帰ってきた、とか
今年もオリーブを漬けてしばらく食べられる、とか
おばあちゃんの服を褒めたら、すごく嬉しそうだった、とか
手作りのプレゼントをもらってほしい人に手渡せた、とか
赤ちゃんがはいはいし出した、とか。
それらは、いくらも社会の理不尽を解決する手立てにはならない。
でも、それらを喜ぶ心は、もしかしたら、
まともな社会にいる人たちよりも、よほど
たっぷり持っていて、
理不尽でも不平等でも、暮らしていけることが
どれほど価値のあるものなのか、知っていたり、する。
二本足で歩き出した、知り合いの子どもと、
私の命が同じぐらい大切ならば、
赤ちゃんの未来に広がる可能性と同じだけの、一体何を、
持って生きたらいいのだろう、とふと、
走りながら考えたのは、先週。
走りながら、今日、
授業なんてさっぱり聞かず、
一生懸命こちらの気を引こうとしている女の子のまつ毛が
すごくクルンとしていてかわいいな、と思って、
ふっと、カメラに収めたことを、思い出す。
目が合うだけで、嬉しそうな顔をする子。
私もまた、授業はきちんと聞いてほしいけれど、
嬉しそうな顔に、こちらもふわっとした気持ちになったな、
と、思い返す。
そして、それが今日一日のうちで、
一番なんだか、よかったことだったと
認識したところで、家のあるアパートメントに続く
一番きつい坂のふもとに着く。
一気に駆け上がって、走るのを止める。
もうすこし、走れたかもしれないのに、
止めてしまうところに、自分への甘さがあるな、と思う。
足の付け根が二重になった、太ったぶち猫が通り過ぎる。
何を持って暮らしていけばいいのか、
うまく、指標は持てない。
いずれにしろ、すべてが中途半端なのだ。
それでも、今日いいことがあったのは、
確実に救いだった。
ぶち猫の写真を撮りそびれた携帯で、
かわいいまつ毛を、見返す。