2019/11/16

マリアさま、もしくは、美しいもの


世界は、美しいもので溢れている。
そうである、と今でも、思っていたい。

美しいもの、とは、例えば
線は細いけれど、響きに奥行きのある歌声であったり、
子どもがマジックペンで描き殴った落書きだったり、
ふっくらと艶のあるザクロであったり、
北の窓から差し込む、淡い光に浮き立つ形いいコップであったり、
ネットで見る、ジョージアの紅葉であったり、
まだ眠る街を覆う朝焼けだったり。

ものや景色の美しさが、貴重なものとなった。
おかげで、初めはいくらも好きにはなれなかった
土漠や拾った石にも、美しさを見出せるようになった。
景色やものに関しては、仙人並みに、
美しさを見出す能力を養いつつ、ある。

そう、つらつらと、美しいものを挙げていきながら、
私にとっての美しいもの、には、
あまり、子ども以外の人の営みは含まれない、
ということを、知る。

根本的に、あまり人には美しいものの要素を見出せないのかもしれない。
そういう点では、子どもを相手にした仕事をしていて
幸いだった、と思う。
子どもには、まだ、行為の一つ一つに
ある純粋性が残っていて、
おそらくは、純粋な何かしら、は
美しさの条件と、なっているのかもしれない。

自分で作品を作り、自己完結するのであれば、
自分の思う美しさを追求することが、誰かに邪魔されることは、ない。
そう考えると、彫刻を作るなんて、
なんとも、幸せなことをさせていただいていた。
ただ、食べてはいけなかった、わけだけれど。

世の中の人の営みのなかに、純粋なものは、そう多くはない。
発端は純粋なものでも、
形にしようとした時には、手垢まみれになる。
いつまでも、純粋なものを抱き続けると、
どこかで、社会と衝突が起きたりする。
妥協が求められ、交渉が求められ、
気がついた時には、抱いていたはずのものは、
磨耗し、曇ってしまう。

美しさは、混沌の中にも存在する、と
美学では、謳われている。
つまり、人が作り出す混沌としたものにも、
美しさがある。
ただ、それは私にとっては、
俯瞰からしか見出せない美しさであって、
渦中で美しさを見出すことは、容易ではない。
(稀にあるけれど、実に稀、で、
それを美しい、と感じることが本来、
倫理的に憚れることである事象だったり、する。)



いしいしんじの作品を読む時、
その、容易ではない作業を、
文字の連なりで作り上げる離れ業を体感する。
善意も理不尽も、幻想も心身の痛みも、
ごちゃ混ぜになっている。


こんな風に、人を、犬を、山を、海を
見ることができるならば、
私の周りももっと、美しさに溢れているだろう、と。

「海と山のピアノ」は、美しい話たちだった。


こちらに来る人に買ってきてもらって、
イラクを経由してここまでやってきた新刊は、
「マリアさま」というタイトルの本だった。

混沌の美しさという観点からすると、
美しさを見出すための、ドリルのような、短編だった。
それから、「見える」幅を広げ、
想像力を養うための、ドリルのようなもの。

一つ目の話から、いつも通り、
箱に入った、世にも美味しいチョコレートを食べるように、
一つずつ、読んでいった。

最後の話まで読んで、
タイトル作品がないことに、気づく。

当然のことながら、疑問が浮かんでくる。
どうして、「マリアさま」だったのだろう、と。

紀伊国屋のカバーがついていたので、
外して、表紙を見る。
金色の箔入れを施した太陽みたいな絵。
帯には、「光さす」と、書かれている。

安直に、ベトナムの教会で見た、
後光を従えたマリア像を頭に思い浮かべる。
それから、ブローディガンの「シンガポールの高い建物」を
ふと、思い出す。

光、か。

紫外線たっぷりの鋭い光は、嫌というほど、
浴びているし、見てもいるのだけれど。

雨が降ったあとの、深夜の街を見る。

モスクと、街灯と窓から漏れる灯りで、
濡れた道路がところどころ、光る。
猫が通る、ゴミの影が浮かび上がる、
黄色い葉が落ちる、男が走っていく。

美しいと思えるものを、増やしていきたい、
そう切望するならば、
マリアさまは、いろいろ途方なさすぎるから、
光を照らして、見えるようにする作業から、
していくことに、するしか、ないようだ。