2017/07/03

湿っている、を、欲している


梅雨に帰国したのは、初めてだった。
何年ぶりの梅雨なんだろうかと、半ば呆然とする。
曇り空の下の緑は、日が差しているときよりも明るくて
自ら発光しているように、見えた。
目に見えない水気の粒子が
緑を映しとって、散りばめられる。

自分の身体が伸びているのを感じていた。

いくらか、みずみずしくなっていたって、おかしくない、と
いつもはかさかさの腕をなでてみたりしていた。

銭湯にたくさん往った。
たぶん滞在の半分ぐらいは銭湯にお世話になったと、思う。
指の先がぶよぶよになるまで、たっぷりお湯に入るのは
何よりも贅沢なことだった。

梅雨を面倒そうに語る人々の言葉を耳にしながら

なに、素敵じゃないかと、
身体いっぱい湿気を感じていたかった。

湿度が上がって、色のようにはっきりと立ち上がる

香りもまた、久しぶりに嗅いだ。
電車の中、神社の近く、隣の家、コンビニ、くちなし、遅咲きのバラや、人そのものの
随分とたくさんの香りを、楽しむ。



それでもまだ、湿気が足りない。

湿っぽいのは、名実ともに嫌いなはずなのに、
よほど乾燥が気になっていたのだろう、
さんざん視聴して買ったCDも、しっかり湿度があった。
他にも候補があったのに、結局このアルバムだったのは、
梅雨の夜の、たっぷり湿った少し冷たい空気が
服にも皮膚にも入り込むように、
1曲目の、初めの方の旋律と和声が、
しっかりと染み込もうとしてきたからだろう。

タワレコの冷房が効きすぎていた、というのもないわけではないけれど。





ブローディガンでさえもどこか湿って感じるのは
もう、気持ちの問題なのかもしれない。
ただ、訳者が違うからなのか、
いつもの控えめな、でもセンスのいい軽妙さが影を潜めて
彼の、どうしようもなく寂しい何かが、
いつもと違う間合いで、行間から滲んできたり、した。






あらためてAsgeirを聴いているのは、

すでに夜明けなのに外は30℃を越えたアブダビ。

私は、久しぶりに
日本に帰る前に、日本が怖くなるように
ヨルダンが少し、本能的に、怖くなる。


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