2017/04/21

言語の隙間で失ったものを


 今更ながらさっぱり言葉が操れないことに一念発起して
 アラビア語の学校に通っている。
 
 無理をして一番難しいクラスに入ってみたら
 さっぱり分からなくて、
 小学生が大人の会話に参加してしまったような状態だ。

 昔、親の客がやってきて、一緒の席に座ってみるものの
 何を話しているのかさっぱり分からずただ、
 ぼんやりとその時間をがまんして過ごすしかなかった、
 などという思い出に、
 レッスン中思いを馳せたりしている。

 レッスンを受けていて何よりも難しいと思うのは
 そもそもディスカッションでテーマとなっていることが
 自分の中で今まで、問題にしていなかったことだったり
 そういうものだから仕方がないのだ、と
 思考の中に組み込まれなかったものであることだ。

 あらためて、言語の豊かさは、思考の豊かさに帰依するものだと
 実感させられる。

 いきなり、夏のように暑くなったアンマンで
 季節に付随して思い起こさせる
 様々な記憶や感情には敏感であることは、
 ふと、気候が変わるごとに気づかされる。

 ただ、人を介して生まれる感覚には
 すっかり、心を閉ざしてきた数年間だったのだと、
 今更ながら、思い知らされる結果となっている。

 これは、愚痴になってしまうし生産性がないから
 考えることを止めよう、と決めてしまったことを
 まだこの土地に新しいクラスメートたちは
 当たり前の疑問と、健康な感覚を持って
 どう捉えたらいいのか、真剣に考えているのだった。

 新しい単語なんてほとんど頭に入ってこないし
 感情を表す様々な単語を
 適切に使い分けるタイミングがない。
 何かを話したい、と思う時に
 それをどの言語で誰に話したいのか、という選択肢が
 自在に使いこなせるようになりたい。
 

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