2016/08/31

最近の本事情 — わたしの名は赤




短編ばかりを手にしていたのは
集中力が持たないからだったのだけれど、
短編のように章が短く、かつ、章それぞれの関係性を考えながら
読み進めていかなくてはならないというところで、
読み応えのある久々のヒット作だった。


16世紀、オスマントルコ時代に設定された物語の醍醐味は
主題となる細密画に託された細密絵師の絵師たるスタンスが
精緻に計算された話の展開の鍵となっているところだった。


イスラム世界における絵画の位は、低い。
ものをあるがままに描くことを良しとする西洋絵画の常識は
現代のヨルダンでさえ、未だに浸透していない。

こちらで美術教員だった時に、まざまざと思い知らされた
幾何学模様と色のバランス、
風景を描く時の、暗黙の了解である決まったモチーフへの執着は
もしかしたら細密画にも起源があるのかもしれない。



ルネッサンスを迎え、絵画に革新的な変化が見られた西洋絵画への密かな衝撃と、
神の視点で描くことが絶対とされるイスラム的な細密画の掟との間で
葛藤する絵師たちの心の在りようが
一人称で書かれる様々な語り手によって
手に取るように、それこそ、細密画が仔細さを掬いとるように
描かれている。


その、一人一人の心情描写からは
絶対的な神の存在と、神の視点を忠実に再現することに執心した
過去の絵師たちの作品と生き様に対して、
ひたすらに畏怖と謙虚さを持って描くことを
絵師たちは要求されていたことが、伺える。

そして、その要求に答えようとする絵師たちの
禁欲で真摯な姿勢は
どこか、日本の禅の思想と、その思想がもたらした画家たちのそれを彷彿とさせて
その勝手な結びつきが、でも自分の中で、とても興味深かった。



おそらく、この作品をこれほど楽しめたのは
少なからずイスラム世界について、
知識と経験があったからなのではないかと
心密かに自負している。

もちろんこちらの文化に造詣がなくとも楽しめるけれども
絵師たちの心の機微が宗教観に帰している限り
物語の主題をより深く体感するには
そのものに対して抵抗がない方が、いい。

反対に、こちらの世界観に馴染みがない人でも
時代は違えど根底に流れるイスラムの何かしらを
一見関係ないと思われる絵画を主題とする物語を通じて
知る機会にはなるのかもしれない。

ちなみに、順当に読み進んだ末、訳者のあとがきまで往き着き
あとがきに作品理解への大きな手助けになる情報が
たぶんに含まれていることに、気付かされた。

ストーリー展開にまでは言及していないので
もし読む機会があるのであれば、下巻のあとがきに
目を通してから読んでもいいのかもしれない。






ところで、好きな街を一つ挙げろと云われて
迷いなく答えられるのが、イスタンブールだ。

中学の時、美術の資料集で見たアヤ・ソフィアの内部の写真が
いつまでも記憶に残っていた。
いつか自分の目でみてみたい、と
けっして旅好きではないのに
どうしても往かなくては、と訪れた街だ。

随分と近くに、姿のきれいなカモメが居て
青い海が街並の向こうに見える、
坂と石と海と緑が絶妙なバランスで在る
美しい街だった。


「わたしの名は赤」は、イスタンブールを舞台としている。


旧市街の有名な観光名所が、物語の随所に出てくる。
入場料が高くてどうしようか迷ったトプカプ宮殿の内部に
主人公が入っていく描写に、興奮した。

少なからず知っている街の描写の一つ一つを
記憶と結びつけながら読める幸せを感じられた
初めての作品かもしれない。



読書の記憶と結びつけることができなかった作品としては
タブッキの「遠い水平線」がある。
ジェノバを舞台としたこの小説は
読んだ後で街を訪れた。
ただ、その街が舞台であったことを知らず、
訪れた後もまた何度か読んで、あるときふと、小さな描写の一片で
ジェノバであることに気がついた。
本を持っていけばよかった、と、後で後悔した。


ジェノバも、気に入った街の一つだ。

結局のところ、
単純に景色の中に石と海があれば、
もしかしたらそれなりに満ち足りてしまうのかもしれない。





2016/08/20

続 最近の本事情 ー 池澤夏樹 ナウシカ 漱石 オルハン・パムク


なんだかたくさん読んでいたようなので
長過ぎるから、続きの、紹介。

全く関係なけれど
満月の前後は両日ともほぼ、まんまるなのに
2日経つと、一気に萎んでしまうように見えるのは
気のせいなのかしら。



久しぶりに、池澤夏樹の読んでいない本を、読む。
新刊ではないのだけれど、日本で買ってしばらく、
これもまた、大切にしすぎて本棚から出していなかった。

震災をテーマにした本は、おそらく本人の徹底した被災地での視点が
元になっている。
それでもなお、ファンタジーに留まって話を書き上げているところに
底知れない本の力を思い知らされる。
双頭の船

一章ごとに出てくる、人物とその人が連れてくるものや考え方が
根底で作者の世界観や思想と混じり合い、波打ちながら
最後まで変化し続けていく話の展開に、
確実な希望を宿していく。

亡くなった人々と、亡くした人を思いながら生き続けていかなくてはならない
残された人々の思いが
物語の中にたっぷりと、でもそこはかとない明るさを持って
描かれていた。

けっして、性善説だけを説いているわけではないのだろうけれど
池澤夏樹の本は、混沌の末に、
人を肯定的に描いているように、思う。

それぞれの心の中の形になりにくい善や
暴力とも取れる正義というのは
やはり、状況を変えていくのには
必要なものなのだ、と思ったりした。





最近持ってきていただいたナウシカの漫画全巻も
正義や善とその反対にあるものを見せつけてくる。



これは読み出すと朝までコースとなるので
読み出す時間が問題になる。

週末は気にしなくてもいいので、
これ幸いと読み始める。
とりあえず、この2週間ほどで、3回読んだ。

相変わらず文字が多いな、
あれ、トルメキアのぷっくり王子たちはいつから出てくるのだっけ、
腐海の図は裏表紙になかったっけ、
これもヒドラだったんだ
などなど毎回新しく疑問や記憶違いや発見があるから
あまりきちんと読んでいなかったのかもしれない。

それでも、世界というものの成り立ちや戦争の形が、
これほど分かりやすく描かれているものはない。

青い衣を纏った神はやってこない現実の世界では、
本質的にナウシカのような心を持ち続けることはできなくて
ただ彼女が最後に神と立ち向かう時に云い切った
人間の存在のしかたに、ただただ感心することになる。




久しぶりに、夏目漱石の倫敦塔も、読む。
ふとした会話の中から出てきた漱石の話で
おすすめを訊かれて、すぐに、倫敦塔、と答えてみたものの
そう云えば詳細がよく思い出せなくて
青空文庫で検索をかけて
深夜にまた、読み直していた。

意味をなさない描写を伴う言葉が一つもなくて、
一語一語が言葉以上の存在感を持っている文章の高潔さに
当たり前だけれど、文豪の所以を知り
舌を巻く。

神経衰弱と胃炎に悩まされていたはずなのだけれど
だからこそ、一字一句に心血を注ぎ続けたその情熱を
深く、体感する。

どんな話でもそうなのだけれど、
気に入ったものや好きなものの話をする時の
人の話はおもしろい。

漱石の倫敦塔への思い入れが、よくよく伝わってきて
でも、漱石らしく、最後にはきちんと
その熱の行き過ぎの恥じらいのような追記が、
一緒に書かれている。

胃潰瘍の理由は、たぶんそのあたりに、ある。




初めてのオルハン・パムクが、
現在のところ一番の楽しみだ。
わたしの名は赤



やっと下巻が手に入って、心置きなく先が読めるようになった。
全く、下巻を買わずに日本を出るなんて
失態としか、云いようがない。
前回帰国した時から4ヶ月ほど、悶々としていた。

細密画の絵師とその編纂者たちの話なのだけれど
各章が、異なる登場人物による視点から書かれていて
設定と書き方だけでも、かなり凝っている。

さらに、恋心と殺人と絵画の歴史と細密画の極意が
織り交ぜられていて
それぞれの視点から書かれている各章を
それこそ細密画を鑑賞する時の視線の動かし方のように
一つ一つ、仔細に追っていくことを読み手に迫まってくる。

きっと最後には、
その絵の全体像を見ることができるのだろう。





大切に、読まなくては。
未読の本が
秋を待たずしてほとんど、無くなってしまうから。

最近の本事情 — トーベ・ヤンソン 論語 向田邦子



日本のお盆がいつからいつまでなのか、分からなかった。

でも、ある朝、日差しの色が明らかに変わって
季節が移りかわりつつあることを、知る。
日差しがたっぷり入る屋上だからこそ、なのかもしれない。

まだまだ日中は暑さが厳しいけれど
夜の風も、どこか纏う空気を変えて
窓から流れ込んでくる。

そして最近、新たな本を手に入れたり、
眠っていた本を再び手に取る機会が増えた。

単純に、読書欲が増しているからで、
一足先に読書の秋、というところだ。

なかなか心穏やかではないことが多かったせいか
その在りようを変えてくれる可能性のある本か、
日常にはないものを見せてくれる本を、
本能的に探す傾向にあったのかもしれない。




テンポよく、さらっと気分を変えることを期待するならば、
短編が、いい。
短編ならば、トーベ・ヤンソンを。
半ばの狂気と、辛辣な視点と、研ぎすまされた感性が
深夜の感覚にじわじわと刺激を与えてくる。

過去にしがみつく女たち、
記憶を勝手にすり替えてくる古い知人
都会の歪んだ倫理を押し付けてくる少年、
人の未来が見えてしまうから誰とも交流を持てない女

身近な人物への洞察力と、本人の想像力と、深く自身を見つめる自省の念が
おそらく、話の根幹でひしめき合っている。

続けてどんどんと短編を読み進めてしまうのはもったいないので
眠る前に一編ずつ読んだりしている。

記憶や情報の整理は、眠っている間になされるらしいから、
私の中には、離島でたった一人、一夏を過ごすような
ヤンソンの潔い孤独が息づいてくれないか、などと
他力本願な期待をしたりする。




朝は、心を落ち着かせようと、論語を読んだりしている。
全く、これもまた他力本願甚だしいのだけれど



子曰く、約をもってこれ失する者は、鮮なし。
子曰わく、君子は周して比せず、小人は比して周せず。
子曰く、惟だ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む。
子曰く、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民鮮なきこと久し。

現代語訳がすぐ後ろに書かれているので
それと照合しながら、読んでいくのだけれど
大方の言葉に、一つ一つ、
はい、その通りです、すみません、ごめんなさい、
と一人勝手に謝ることになる。

徳や仁からは、ほど遠く、ましてや中庸になどなれるはずもなく
煩悩と混乱の世界に、往かなくてならないのだな、と
本を伏して、ドアを開け、階段を下りることになる。

もっともこれは私の心の在りよう次第なので、
自分が悪い、ということなのだけれど。

孔子がすごいのは、
自分よりも徳や仁の高い人物とつきあいなさい、と云っているところだ。
人を選べと。
徳や仁はなくとも、面白い人たちはたくさん居るし、
人を選んでいたら仕事が成り立たないので、
結局、ますます、心の在りようは、穏やかではなくなってしまうようだ。





先日、たまたま牛テールが手に入ったので
ひたすらに煮続けていた。

ピアノの短い曲を弾いては、灰汁を取り、
またピアノを弾いては、灰汁を取る。
そんなことをしながら、ふと向田邦子の本を思い出す。

練習にも飽きると、だらだらしながら、ちらちらと短編を開く。

作者の人となりが、反省しつつ、開き直りつつ
文章のそこここにちりばめられている。

雑誌への寄稿が集められているので
題材はそれぞれなのだけれど
どの話もその部分部分が頭の片隅にしっかり残っていて
仕事の合間にふと、思い出したりして
にやにやしたり、感慨にふけってしまったりする。

一番困るのは、食べ物に関する文章で
ごま油をしっかり使ったシンプルな炒り卵や
海苔弁当や豚鍋や
わかめの油炒め
詳細に書かれた調理法や食べ物の描写のすべてが
在外の身としては、完全に嫌がらせになっている。

海苔吸いの調理法の最後に
もったいつけてでも小さな椀に盛り
おかわりはさせない、という下りがある。

本人の食をふるまう時の小粋な技に
ふうっと深いため息をつくことになる。


結局、牛テールは
なんだか味がうまく納まらないまま
お客人たちの腹の中に入っていった。
余りがないのでも、もったいぶっているのでもなく、
味が納まらないから
おかわりをお勧めできなかった。
まだまだ、人をもてなすまでの技量はないようだ。